福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

季節のあいさつ アーカイブ

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 
季節のあいさつのお手紙を書く羊

2024年10月 季節のあいさつ

 11月に入り、秋気いよいよ深まり、落ち葉が風に舞う頃となりましたが、ご機嫌いかがでしょうか。

 

「主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。」(詩篇989)

 

最初の3節は、イスラエルの民に神を賛美するように勧めています。その理由は、全世界の民が目撃したようにイスラエルの民をバビロン捕囚から解放したのは主の(1節)「奇しいわざ」によるからです。バビロン捕囚は、イスラエルの神の敗北のように見えました。ところが、70年後、バビロンは滅ぼされたのです。これは神の(1節)「右の御手と、その聖なる御腕」によって成し遂げられた神の(1節)「奇しいわざ」の勝利でした。

次に4節から8節で、(4節)「全地」の民に賛美を勧めています。(5節)「立琴」の音色に合わせて、主の前に(6節)「ラッパと角笛」の音を高らかに響かせて賛美するようにと。海の生き物やこの世界に住む虫一匹に至るまで声を張り上げて神のすばらしさを賛美せよ、と勧めています。その理由は、主は万物の創造者、全地の王だからです。

最後にイスラエルに勝利を与えた万物の創造主、全地の王なる主が世界をさばくために来られると言われています(9節)。その時、神は世界を義と公平をもってさばかれるのです。

キリストの十字架による救いは、主の成してくださった不思議なみわざです。バビロンの滅亡のように決して人の力、知恵によるものではありません。神の救いとはこのようなものなのです。(マルコ12:11)「これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える」と。その主の再臨とさばきについて9節に預言されているように「栄光の王」として再び来られます(使徒の働き1:911)。その時、主は全世界を公正に究極的にさばかれ、御国を完成されるのです。

この世界は、罪と汚れと貪欲と不義と不信仰に満ちています。しかし、私たちはキリストの十字架の血によって贖われた者として、主に感謝と賛美をささげつつ日々を歩み、聖霊により主を心にお迎えし、聖い生活を送りましょう。再臨の時に主のみ前に立つことができることこそ私たちの希望です。

 

  秋晴れのすがすがしい日々を充実したものにされますようにお祈りいたします。

どうか、神を信頼する者を守り続ける神を信じ続けてください。また、礼拝でお会いできる日をと祈っています。教会はいつでも、いつまでも皆様をお迎えする気持ちを大切にしております。

葛西福音キリスト教会 牧師  松山公要

2024年10月 季節のあいさつ

 10月に入り、秋気さわやかな良い季節になりましたが、ご機嫌いかがでしょうか。

 

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」(詩篇1篇1節)

 

詩篇はクリスチャンのたましいの奥底から出る祈りであり神への賛美です。詩篇の全篇には「魚と猫」が満ちているとある人が言っていました。「魚と猫」とは「さ、か、な、と、ね、こ」という詩に込められた感情の頭文字です。著者の神に対する感情、賛美、感謝、嘆き、とりなし、願い、告白という詩篇の全篇に満ち満ちているものです。

この詩篇1篇は、大きく分けて5のグループからなる詩篇全体を総括する代表的な詩篇です。神に信頼して従う正しい者と、神に頼らず背く悪しき者のコントラストが鮮明に描かれています。1節から3節は「正しい者」の幸いが、4節から6節は悪しき者の末路が描かれています。

詩篇の著者は冒頭で(詩篇1篇1節)「幸いなことよ」「正しい者」、クリスチャンの地上の生涯を賛美します。これがこの詩篇の冒頭句として、この詩篇、いや詩篇のグループ全篇を表しています。すなわち日常の歩く、立つ、座るという生活、日常生活全体を表す中で、はかりごとも行動もことばも、神に逆らう者と全く一線を画している「正しい者」、クリスチャンは幸いな人だと言うのです。そのような幸いな人は(詩篇1篇2節)「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」生活を営みます。これこそ人が生きるべき正しい道だと教えます

その神に祝福される「正しい者」「水路のそばに植わった木」に例えられています。根は「水路」から水分と栄養を吸い上げ、「葉は」青々と生い茂り、「枯れる」こともなく、枝もたわわに「時が来ると実」を結ぶと言うのです。イギリスのハンプトン・コートのブドウの木はその根をテームズ川の水路に根を伸ばし、豊かに実を結び、葉もしぼむことは決してないと言われています。日常生活の隠れた根の部分が神のみことばに根差し、「愛」「喜び」「平安」の葉は茂り、ことばと行動に「寛容」「親切」「善意」の実が結ばれます(ガラテヤ人への手紙52223)。何と幸いな者、クリスチャンの人生なのでしょうか。

一方、悪しき者は風が吹き飛ばすモミ殻のように、神の「さばきに」耐え得ず、「正しい者の集いには立」てません。主なる神は「正しい者」、クリスチャンの「道を知」られ、悪しき人は「滅び」去るのです。

時々刻刻、神と交わり、神のみことばを「喜び」楽しみましょう。隠れた生活の根の部分が「水路に」「植えられた木」のように、みことばから十分に栄養を吸い上げましょう。

どうか、主なる神よ、みことばをください。あなたのみことばに根を下ろし、豊かに実を結ぶ者としてください。アーメン。

 

  朝夕は肌寒くなってきましたので、風邪などひかれないように、お過ごしください。

どうか、神を信頼する者を守り続ける神を信じ続けてください。また、礼拝でお会いできる日をと祈っています。教会はいつでも、いつまでも皆様をお迎えする気持ちを大切にしております。

 まだ残暑が続きそうですが、お体を大切になさってください。

葛西福音キリスト教会 牧師 松山公要 

2024年9月 季節のあいさつ

9月に入り台風一過の青空に、初秋の気配が漂うようになりましたね。

 旧約聖書の詩篇102篇には、悩み時にどのように祈ったかを通して、苦しみの時の模範的な祈りが教えられています。

 

 1節から2節は、神への呼びかけです。苦しみの上、神に見捨てられて、悩みが顧みられないのではないかという不安に中で「私が呼ぶときに、早く私に答えてください」と。率直に訴えています。

 3節から11節では、この詩人は苦悩をそのまま訴えています。病の中で、いのちのはかなさを覚えました。骨は炉のように燃えて、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れ、苦悩に骨と皮はくっついた状況で、ひとりぼっちの鳥のように孤独でした。しかも、自分の罪、汚れが神に憎まれ、神に打たれたのではないかとの苦い思いを訴えています。

 ところが、「しかし、主よ」(詩篇10212)と悲しみに沈むことなくしっかりと顔を神に向けたのです。神は永遠であって、はかない人間とは対照的であることに気付いたのです。神はシオンの町を憐れまれ、祈りに応えられ、回復されるとの希望を見出しました。それはバビロン捕囚から民が解放された歴史的事実のためでした。それで、真実な祈りは必ず聞かれること。詩篇10217節にあるように一時的に神の応答がなくても、ないがしろにはされないとの確信を持つのです。

 詩篇10223節から始まる神との対話では、自分のいのちは短く、見えるものは全て移り変わっていくこと。天地万物の創造主なる神は永遠なるお方で、不変なるお方であること。それ故神を信じる子孫は継続して堅く立ち続けることができることを感謝しています。

 どうでしょうか。人生において、悩みはつきもので、誰もが、時として厳しい苦悩を経験します。しかし、神を信じる者の苦悩には意味があるのです。そして、悩みの中で神に「祈ること」の意味を知っているのです。そうであるから、一人で思い悩むことから解放され、神に訴える道が必ず開かれています。弱い、愚かな、失敗した自分をさらけ出して祈れる相手が聖書が証しする主なる神なのです。どうか、苦悩の中にあるなら、何をさしおいても心を神に向けて「主よ」と素直に祈ってください。

 

 どうか、イエス様を信じ続けてください。また、礼拝でお会いできる日を祈っています。

 教会はいつでも、いつまでも皆様をお迎えする気持ちを大切にしております。

 そろそろ暑さも峠を越え、夏の疲れが出るころですので、どうかご自愛ください。

2024年8月 季節のあいさつ

 8月に入り、立秋も近づいて来ていますが、立秋、秋の初め頃とは名ばかりで、相変わらずの酷暑ですが、お元気でいらっしゃいますか。

 

「あなたは、あなたは、恐ろしい方。あなたが怒られたら、だれが御前に立ちえましょう。」(詩篇767節)

 

この詩篇が描く状況は、都エルサレムを包囲していたアッシリア軍が主の御手によって崩壊したありさまです。アッシリア軍の王セナケリブはエジプトを攻撃した帰途、大軍をエルサレムに送って、包囲しました。押し寄せたアッシリア軍は戦う前から勝ち誇り、罵り、騒ぎ立ちました(Ⅱ列王記181337節、Ⅱ歴代誌32119)。これで国民は動揺しますが、そういう苦境にあって懸命に信仰に立ち続けた人たちがいました。ユダの王、ヒゼキヤと預言者イザヤです。二人はひたすら祈り続けました(Ⅱ歴代誌3220)

そして、ついに祈りが聞かれる日がやってきました。その日、朝早く、国民は恐る恐る城壁の間から外をのぞいてみると、びっくり仰天するような光景が飛び込んできました。町を包囲していた敵軍の将校、兵士たちが死体となって転がっていたのです。その数185千人(Ⅱ列王記1935節、イザヤ書3736)。一戦も交えずに、完璧に勝利したのです。

(詩篇767節)「あなたは、あなたは、恐ろしい方」とはこのアッシリア軍全滅のありさまを目撃した人々の実感でしょう。その日の朝、ことの厳粛さに国民は息をのみ、神を畏れる静けさが漂ったことでしょう。この体験は国民に大きな影響を与えたはずです。このたびの苦難は人間的な努力や創意工夫で乗り越えられるものではなく、風前の灯のような祖国を救ったのは、御力ある神でした。彼らは今更ながら主なる神の神たることを思い知り、この神を誇りとしました。

私たちの誇りは何でしょうか。日本の誇りとするところは何でしょうか。いったい、聖書の神を誇りとする人が日本には何人いるでしょうか。たとえ少数であったとしても、神を誇り、神を畏れるクリスチャンは日本の国の良心です。やがて、もっと多くの人が神を知り、その御名を称える日が必ずやってくることを信じましょう。

 

どうか、主なる神よ、この国にもあなたを誇り、あなたを畏れる人々がもっと多く出て来ますように、アーメン。

 

 大輪のひまわりも首を垂れるほどの猛暑の毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか。信頼する者を守り続ける神を信じ続けてください。またいつの日か、礼拝でお会いできる日をと祈っています。教会はいつでも、いつまでも皆様をお迎えする気持ちを大切にしております。

 当分厳しい暑さが続きそうですが、お体を大切になさってください。

葛西福音キリスト教会 牧師 松山公要 

2024年7月 季節のあいさつ

 7月に入り、梅雨明けが待たれる昨今ですが、ご機嫌いかがでしょうか。聖書には次のような勇気と励ましのことばがあります。

 

『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。』(詩篇91篇12節)

 

 小鳥たちさえ木陰に入るほどの厳しい暑さが続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

 羊さんはクーラーの良く効いた部屋で勉強していますが、酷暑の中、私の部屋のクーラーは故障中です。点検依頼をメーカーにしました。早く点検修理に来てほしいです。

 さて、150篇ある詩篇の中で、特に46篇と91篇は「信頼の歌」と言われています。

 まず、神を信頼する者の幸いが信仰告白されています(詩篇91篇1から2節)。「隠れ場に住む」「全能者の影に宿る」の「住む」とか「宿る」とは、神と私の関係が夫婦のような人格関係を意味します。そのような神との関係に中にあるクリスチャンは、主は「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と信仰告白できるのです。

 さらに、主の豊かな保護が示されています(詩篇91313節)。「狩人のわな」とは人為的な災いです。「恐ろしい疫病」とは自然の脅威を代表して述べられています。そのような中で、親鳥が翼を広げてヒナを囲んで、外敵から守るように、神を信頼する者を守ってくださいます。また(詩篇917節)「千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても」と、クリスチャンだけは守られるのです。それは出エジプトの時、またアッシリヤのエルサレム包囲の出来事を思い返しながら語っているのでしょう(出エジプト12章、Ⅱ列王記19章)。

 あなたもこの詩人のような恐ろしい、危険の中を通られることもあるでしょう。その時、神が守り霊的祝福を与えてくださるのは、自分自身が何か人より勝っているとか、価値があるためではありません。そうではなく、神が守ってくださるのは、あなたが神との交わりを通して、夫婦のような親しい間柄にあるからです。すなわち、人々の目から隠されている所におられる神との交わりをいつも持ち続けているからです(マルコ135節、マタイ66節)。あなたが恐怖と危機の中を通る時、神を愛し、神の名を知っていて、神を呼ぶならば、神は答えてくださいます(詩篇911415節)。神との交わりを持ち、信頼する者を守ることを神は決してお忘れになることはないのです。ハレルヤ!

 どうか、信頼する者を守り続けるイエス様を信じ続けてください。また、礼拝でお会いできる日を祈っています。教会はいつでも、いつまでも皆様をお迎えする気持ちを大切にしております。

 炎暑の毎日ですが、この暑さに負けないバイタリティーで快適な日々を過ごされますように。

 

葛西福音キリスト教会 牧師 松山公要


2024年6月 季節のあいさつ

 皆さま、くちなしの花が甘い香りを漂わせて、今を盛りと咲き誇っていますが、いかがお過ごしでしょうか。聖書の次の言葉をもって、人生の旅路を生きる人を励ましています。

 

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。」 (詩篇845)

 

 路傍にそよぐ草木の緑も深みを増してきましたね。

 さて、旧約聖書の詩篇84篇には幸いな人の姿が描かれていますが(詩篇84篇4512)、その中で、神様を自分の力とし、神様のみを慕っている人の幸いを見たいと思っています(詩篇845)。人は誰でも何かを、誰かを頼みとしています。ところが、聖書は神様を頼みとし、神様を力とした生活こそ、幸いであると言っています。それは、神様に信頼して生きていくならば、試練や苦難も祝福にかわるからです。「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」(6)パレスチナ地方には荒れ果てた不毛の地がありましたが、そこを旅する者にとっては、まさに涙の谷だったのでしょう。しかし、そのような荒れ果てた不毛の地、涙の谷を通っても、そこを泉のあるところとするというのです。不毛の地、涙の谷のような試練や苦難が祝福の泉に変化するというのです。

 また、神様に信頼して生きるならば天国に至る道が保障されるからです。「彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。」(7)シオンとはエルサレムのことで、そこには神殿があり、人々は神様を礼拝するためにエルサレムを目指して旅をしたのです。人生という旅には試練や困難という山もあれば、谷もあります。しかし、神様に信頼して永遠の神の都を目指して生きていくならば、力を得てついに天において神様と共に生きることができるのです。この天においてこそ、神に信頼する者の旅路の目的地となるのです。人生の力の出所である神様に信頼して、天を目指してこの地上のいのちを生き続けましょう。

 

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル1223)

 

 どうか、イエス様を信じ、そして信じ続けてください。

 どうか、礼拝でお会いできる日をと祈っています。

 教会はいつでも、いつまでも皆様をお迎えする気持ちを大切にしております。

 雨の日は、静かにしていると心が落ち着きます。休日には十分に休養をとってください。

  

葛西福音キリスト教会 牧師 松山公要