朝、聖書を開いてみました。

ああ、肉が食べたい
どうか誘惑に陥らないように、日々の祈り、賛美、デボーションを通しての神との交わり、神の臨在、神への感謝で生きましょう。
臨在の雲の導きに従って
平々凡々、普通ではあるけれど、しっかりと日常の信仰の歩みを重ねてこそ、私たちの約束の地は保証されているのです。ハレルヤ!
一カ月遅れの過越しの祭り
「わたし(イエス)にとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」
レビ人の聖別
「レビ人の聖別」について、『主はモーセに告げて仰せられた。「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ」』から、私たちに与えられた神に仕える栄誉について教えられました。
主は心を見る
モーセが幕屋を完成して、油を注ぎ、聖別した時に、族長たちは、感謝をもってささげ物を主の前に、部族ごとに携えてきました。レビ人がそれを受け取り幕屋の働きに用いたのでした。この時、主なる神はモーセに、一度に受け取らず、一日にひとりずつ、必要に応じて、必要なものをささげるように命じられました。  
ナジル人として生きる
 信仰の結果である、たましいの救いを見るとは。  聖書は教えます。(Ⅰペテロ1章8~9節)「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」と。
聖別とは②
モーセの時代から、イエスの時代まではおよそ1300年の隔たりがありますが、同じ神の愛の働きがあるのです。それは聖別の本質は排除ではなく、神の愛だということです。ですから律法厳守の宗教観の中で、イエスは律法を賜られた神のみこころが愛であることを私たちに教えてくださいました。そして汚れた存在を排除することで、集団体制を維持することの背後にある神の愛を忘れずに、迷い出た羊を捜し出す「羊飼い」の愛こそが、神のみこころであることを、身をもって教えてくださいました。
聖別とは
私たちは、この世の人々に、救い主イエス・キリストを証しし、十字架の死と復活によって現された福音を宣べ伝える使命を託されています。主なるイエスのことを、人間と同じように伝えたり、教会堂や自分自身をいい加減に管理したり、粗末に扱うことを神は喜ばれません。(Ⅰコリント6章19節)「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではない・・・」と命じられています。
神の選びとは
主なる神は、イスラエル十二部族の中から、レビ族を選び、アロンを補助する者として、神に仕える務めに任命しました。神は、失敗のない完全な者だから、選ばれたのではなく、かえって不完全さのゆえに、痛みや苦しみ、挫折感に打ちのめされ、悔い改めた経験のある者に、神の選びというチャンスをくださるお方なのです。主なるイエスも試みを受けられました。(へブル2章18節、4章15節)。ハレルヤ!
キリストのからだなる教会
「キリストのからだなる教会」(新改訳第三版)。モーセは、関係が近い部族ごとに四つのグループに分け、東西南北に配置し、それぞれの旗印のもとに、幕屋を中心に隊列を作って進むように命じました。これが主なる神の求められた神の民の在り方です。

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