福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

「見捨てられたイエス」

葛西説教20230402

1.テキスト「マルコ15:33-39

2.タイトル「見捨てられたイエス」

3.中心聖句「マルコ15:34

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

4.本文「見捨てられたイエス」

(イエス様の十字架は、私たちが見捨てられる代わりに、イエス様が見捨てられることだと発見する。)

 序)「神に会う備え」

 2023年度が始まりましたね。旧約聖書のアモス書にはこのようなみことばがあります。「イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12)と。イザヤはイザヤ書6章で神の御前に出る体験をし、それが彼の「かたくなにするメッセージ」を宣べ伝え続ける力、彼の宣教の可能性、宣教の希望となりました。ですから2023年度の第一四半世紀、私たちは、まず「神に会う備え」を説教テーマと考えています。しばらく、メッセージのテキストは旧約聖書が続きますがよろしくお願いします。

 ただ今週は受難週、来週はイースターです。この2週間は新約からお話しします。受難週は、イエス様が十字架につかれたことを記念する一週間です。では、なぜイエス様は十字架につけられたのでしょうか。その意味、その真理について、私たちの救いについて考えてみましょう。

 

本論)「見捨てられたイエス」

.「話の流れ」

 イエス様は不当な裁判にかけられた後、朝の9時に十字架につけられました。他に2人の強盗も十字架につけられました。十字架上にはどんな罪を犯したのかが書かれますが、イエス様の場合には「ユダヤ人の王」と書かれました。

 イエス様は十字に組んだ木に手と足を釘打たれ、その十字架が立ち上げられました。ものすごく痛かったでしょう。しかし、それを見ていた群衆も、祭司長や律法学者も、隣の十字架の罪びとも、イエス様をののしります。「救い主なら、十字架から降りて自分を救ってみろ、そしたら信じてやる」と。

 すると、昼の12時から真っ暗になり、3時まで真っ暗でした。そして明るくなった時、イエス様は「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれたのです。それは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。一体何が起こったのでしょう。これまで、神様の御心を一度も悲しませたことのないイエス様が、苦しみの叫びをあげられたのです。このことから、イエス様は父なる神様から本当に見捨てられたということがわかります。イエス様には一つの罪もなく、いつも父なる神様といっしょに働いておられたにもかかわらず、父なる神様から完全に見捨てられました。私たちが父なる神様に見捨てられる代わりに、イエス様が見捨てられたのです。

 イエス様がこの叫びを上げられた時に、神殿の奥の聖所と至聖所を分ける幕が上から下まで真っ二つに裂けました。至聖所とは、大祭司が年に一度だけ羊の血を携えて入ることができる場所です。そこで、大祭司は神様のことばを聞きます。その隔ての幕が上から下まで裂けたというのは、羊の血でなくイエス様の血が流されたので、私たちの罪が赦され、神様といつまでも、どこでも、隔てなく交われるようになったことを意味します。神様が、上から隔てを破ってくださったのです。

 そしてイエス様は「すべては完了した。父よ、わたしの霊を御手に」と叫ばれ、息を引き取られました。十字架のもとにいて、はじめから終わりまでイエス様を見続けていた百人隊長は、「まことに、この人は神の子であった」と告白しました。彼は、十字架の出来事を一部始終、つぶさに見て、このような告白をしました。

 

.「イエスの叫びの意味」

 このイエス様の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の意味とは何でしょうか。それは本当の意味で、イエス様が十字架の上で父なる神様に見捨てられたということです。罪深い私たちが神様に見捨てられる代わりに、イエス様が父なる神様に見捨てられたのです。それゆえ、イエス様を信じる者は、もはや決して神様に見捨てられることはないのです。

 

.「あなたはどうしますか」

 十字架のまわりの人々は、民衆や祭司長、律法学者たちのようにイエス様をののしる人と、百人隊長のようにイエス様を神の子だと認める人とに分かれました。イエス様が十字架につかれたことは、あなたにとってどんな意味がありますか。この話は2千年前のことだから、私には何の関係もないと考えますか。それともイエス様は救い主の役割に失敗して殺されたのでしょうか。それとも、あなたの罪の罰と償いの身代わりになり、あなたの代わりに見捨てられたのでしょうか。どうか、このことを深く考えてみてください。

 

勧め)「見捨てられたイエス」

 

 イエス様は、神様だから十字架を恐れなかったのでも、全能の力で十字架の痛みを感じなくしたのでもありません。イエス様にとって、十字架は肉体的に痛いことでした。でも霊的には父なる神様に見捨てられることで、それ以上に苦しかったことでしょう。自分の罪のゆえに私たちが神様に見捨てられる代わりに、イエス様は父なる神様に見捨てられました。それゆえ、イエス様を信じる者は、もはや決して神様に見捨てられることはないのです。