葛西説教20230813①
1.テキスト「出エジプト20章7節」
2.タイトル「神の御名」
3.中心聖句「出エジプト20章7節」
「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」
4.本文「神の御名」
序)「多神教信仰の日本」
多くの日本人は、天地万物を造った全知全能の唯一の神という概念を持っていないと言われます。そこから多神教信仰と唯一神信仰の違いが現れます。すなわち、神と人の境界線の曖昧さです。それは優れた人を神に祭り上げる傾向として現れます。菅原道真(すがわらみちざね)、楠木正成(くすのきまさしげ)もその例でしょう。また多神教信仰のご利益宗教の神々は、人間が自分の願いをかなえてもらうために造られたものです。ですから、思いがかなわないときにひどい扱いも神々は受けます。例えば「てるてる坊主」は童謡で、晴れなければ首をちょん切られることになります。
本論)「神の御名」
Ⅰ「大切にするとは」
皆さんは、名前を間違って呼ばれたことはありますか?どんなに有名な人の名前と間違えられても、うれしいものではありませんね。名前は、たった一字間違っただけでも、自分の名前ではなくなります。また名前は、呼び捨てにされたり、頼みごとの時だけ丁寧に呼ばれたりしても、嫌な気持ちになります。すなわち、名前を呼ぶときに、その人を大切にしているか、軽んじているかが表れるのです。
私たちも、思わぬところで神の名を軽んじていることもあるのではないでしょうか。外国の映画などで、驚くことが起こったら「オー・マイ・ゴッド」と叫ぶ場面があるでしょう。それは決して神を信じて呼んでいるわけではありません。日本でも賭け事などで、自分が勝ちたいからと「神様、仏様」と言って願ったりする場面を目にするのではないでしょうか。古代近東においては、「その名をつかむ者は、その名を持つ者の力をつかむ」という考えがありました。すなわち、神の名が呪文の中で著しい役割を演じたのです。呪文とは、人間の都合のために神を用いることであり、そこには人間のご都合主義、傲慢(ごうまん)が見られるのです。ですから、「みだりに唱える」とは、自分の都合で神の名を勝手に使い、自分の方が神よりも偉く、神の立場に自分が立つことになるのです。
Ⅱ.「人に神の呼び名を与える」
人間はどんなに偉い人であっても、神ではありません。しかし、しばしば日本社会では、素晴らしいスポーツ選手を神として呼んだりします。神社が設けられた選手もいましたね。例をあげると、ペレをサッカーの神様とか、マイケルジョーダンをバスケットの神様とか。彼らは本当の神でしょうか。決してそうではないですね。ただそのスポーツが人並外れてうまいというだけで、天地万物を造ったわけではありません。
そもそも私たちの国では、人が神になるという考えがあります。先に話した菅原道真は学問の神様として天満宮に、徳川家康は日光東照宮に祭られています。聖書は神という名は、唯一の創造神のみに用いるように命じています。ですから、人に神の呼び名を与えることも、御名をみだりに唱えることになります。また、偶像を造ることにもなります。
まとめ)「神の御名」
名前をみだりに唱えるかいなかで、大切にしているか、軽んじているかが分かります。ですから、神の御名をみだりに唱えることは、結局、神を軽く見ることになり、偶像礼拝になるのです。天地万物を創造された唯一の神に対して、祈ったり、礼拝したり、賛美するときだけ「神」「主」と呼びましょう。
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