葛西説教20240121①
1.テキスト「ヨハネ11章17~44節」
2.タイトル「三つの真理」
3.中心聖句「ヨハネ11章40節」
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、
とわたしは言ったではありませんか。」
4.本文「三つの真理」
序)「もしあなたが信じるなら」と語られるイエス
イエスは愛する者の死に直面して絶望している人々に「もしあなたが信じるなら」(ヨハネ11章40節)と言われました。このことばはヨハネ11章25と26節のことばを指して言っていると思われます。そして神の栄光は、見てから信じるのではなく、信じたら見られることを教えています。
このイエスのことばに人々はどのように信仰に生きたのでしょうか。「そこで、彼らは石を取りのけた(ヨハネ11章41節)」とあります。彼らはイエスのことばに従うことによって信仰に生きました。それが神の栄光を見ることにつながったのです。そしてイエスは「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします」(ヨハネ11章41節)と神の栄光を見ることを先取りして祈っています。
新年礼拝で希望はイエスにあると聖書を語りました。ですから「もしあなたが信じるなら」と語られたイエスを信じて、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩篇23篇1節)と賛美し、祈り、そして自らを神に献げる一年として生きてください。
本論)「三つの真理」
Ⅰ.「本当の希望とは何か」
イエスは、ラザロの病の知らせを聞いても、すぐに彼のいる町ベタニヤに出発されませんでした。その結果、イエスがお着きになったときには、「ラザロは墓の中に入れられて四日もたって」(ヨハネ11章17節)いました。すぐに出かけられても死後2日後で間に合わなかったのですが。そこで、主が着かれたとき、姉のマルタとマリヤは、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11章21・32節)と全く同じことばでイエスに愚痴をこぼしています。二人は、ラザロが死んでしまった以上、もはやイエスが来られても、何の希望もないと思っていたのです。しかしイエスは彼らに、「あなたの兄弟はよみがえります」(ヨハネ11章23節)と驚くべきことを約束されました。
今でも多くの人々は、死んでしまったら終わりだと思っています。彼らの希望はこの世だけのものです。しかし、イエスが与えてくださる本当の希望は、永遠に続くものなのです。
ですから「もしあなたが信じるなら」と語られたイエスを信じて、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩篇23篇1節)と賛美し、祈り、そして自らを神に献げる一年として生きてください。
Ⅱ.「本当の愛とは何か」
「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」(ヨハネ11章5節)。だから、愛する者を失って悲しみのどん底にいる姉妹の気持ちを十分理解しておられました。イエスは、まずマルタに「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)と言って励まされ、また家にいたマリヤも連れ出して墓に向かわれたのです。泣いているマリヤやユダヤ人たちを見て、イエスは「霊の憤りを覚え」(ヨハネ11章33節)られました。これは人類の「最後の敵である死」(Ⅰコリント15章26節)に対する憤りでした。さらにまた、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11章35節)。このことばは「はらはらと涙を落とす」という意味です。それを見た人々は、「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか」(ヨハネ11章36節)と、イエスの愛の大きさを知ったのでした。
愛されているのは、単にラザロだけではありません。父なる神はこの世のすべての人々を愛し、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3章16節)に、神の御子イエスをこの世に遣わされました。イエスの使命は、死の力に勝利し、信じる者に永遠のいのちを与えることです。イエスは今も私たちひとり一人を愛しておられるゆえに、罪からくる報酬である死を、私たちの身代わりとなって味わってくださいました。これこそ本当の愛です。私たちはこの本当の愛を信じています。
ですから「もしあなたが信じるなら」と語られたイエスを信じて、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩篇23篇1節)と賛美し、祈り、そして自らを神に献げる一年として生きてください。
Ⅲ.「本当の信仰とは何か」
すでにイエスは、ヤイロの娘とナインのやもめの息子をよみがえらせておられます(マルコ5章、ルカ7章)が、それを目撃していた弟子たちでさえ、ラザロの場合にはそれを期待していませんでした(ヨハネ11章11~16節)。マルタが「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」(ヨハネ11章24節)としか言えなかったのも不思議ではありませんでした。また人々も「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」(ヨハネ11章37節)と言っています。だれもが、イエスの力を信じていませんでした。
しかしイエスは、墓の石を取りのけることを躊躇するマルタに、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(ヨハネ11章40節)と厳しく言われました。イエスが神の御子なら、全てのことは可能です。そのことを信じることこそが、本当の信仰です。
ですから「もしあなたが信じるなら」と語られたイエスを信じて、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩篇23篇1節)と賛美し、祈り、そして自らを神に献げる一年として生きてください。
まとめ)「三つの真理」
ラザロの死は「神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(ヨハネ11章4節)でした。彼のよみがえりは神の栄光を現わしたことは事実でした。しかし、彼はその後永遠に生きていたのではありません。いつかは、肉体のいのちを失ったでしょう。そして本日の中心聖句が文字通り実現したのは、それから1週間余り後、イエスが復活された時でした。復活こそ、イエスが神の子であることの明確な証拠であり、私たちに永遠のいのちを与えてくださることの保証です。
ですから「もしあなたが信じるなら」と語られたイエスを信じて、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩篇23篇1節)と賛美し、祈り、そして自らを神に献げる一年として生きてください。
葛西福音キリスト教会 関連ホームページ