福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年10月20日(日)礼拝メッセージ

「神に喜ばれるささげもの」

葛西説教20241020

1.テキスト「創世記418節」

2.タイトル「神に喜ばれるささげもの」

3.中心聖句「へブル書11章4節」

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ・・・た。」

4.本文「神に喜ばれるささげもの」

)「人類最初の殺人」

 アダムとエバの二人の子どもたちのささげ物に対して、神はアベルのささげ物を顧み、カインのささげ物を顧みられませんでした。そのため、人類最初の殺人が起こりました。

 では、間違った行いを指摘されたとき、私たちはどう答えるでしょうか。

 

本論)「神に喜ばれるささげもの」

.「カインとアベル」

 罪の結果、エデンの園を追放されたアダムとエバに最初の子が与えられました。彼らが罪に陥った苦い経験をした直後のことですから、彼らの喜びはどんなに大きかった事でしょう。ですから彼らはその子をカインと名付けました。その意味は「私は・・・得る」です。

 彼らには、間もなく次の子が与えられました。しかし最初のカインの時のように感激は無かったのでしょうか。また、カインが育つにつれて罪の傾向が顕著になっていくのを見てなのか。そのため人のむなしさを感じたためか。次の子には、アベル、すなわちその意味は「息」と名付けました。このことばは、人のむなしさやはかなさを表しています。

 (創世記42節)「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」のでした。同じ両親から生まれても、その子によっては性格や才能、適正は異なりますね。また、この個所での羊を飼う者と土を耕す者の間には職業の優劣はありません。また、この家庭は、決して無神論の家庭ではなく、神にささげ物をささげる家庭でした。エデンの外で生まれ、堕落した父アダムの息子ではありましたが、生まれつきの彼らに差をつけるものは何もありませんでした。この息子二人は罪びとであり、両者とも堕落した罪の性質を持っていて、決して完全なきよさを持っていたわけではありませんでした。

 

.「カインとアベルのささげもの」

 ある時、カインとアベルはそれぞれ主へのささげ物を持ってきました。カインとアベルは両親から神へのささげ物をすることを教えられていたに違いありません。また、両親が労働の果実をささげ物として神にささげているのを見ていたことでしょう。

 ところが、(創世記445節)「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった」のでした。カインとアベルの二人のささげ物の違いは何でしょうか。二人ともささげ物をしたことは共通していて、またこれらのささげ物が(創世記43節)「主へのささげ物」であったことも共通していました。

 創世記には、なぜ神がカインのささげ物を認められなかったのかの理由は書かれていません。おそらく、カインの態度がふさわしくなかったか、ささげ物が神の基準に達していなかったと考えられています。すなわち、ささげる側のささげ方の違いです。それについて二人の違いは二つあると考えられています。

まず、カインはおざなりに事務的にささげ物をささげましたが、アベルは進んで、心からの最高のささげ物をささげたということです。創世記43節は、カインが手近な作物を人づてに届けさせたと読むことができる文章となっています。それは「おざなり」と表現されるささげ方でもあったのです。ですから、カインは「最善のもの」でも「最悪のもの」でもない、ごく普通のありふれたささげ物をささげたのです。

一方、アベルは最高のささげ物をささげたのです。(創世記4章4節)「羊の初子の中から、それも最上のものを」ささげたのです。

つぎにカインとアベルのささげ方の違いです。彼らは共にささげ物をささげました。ですから、二人とも宗教的ではありました。しかし、カインは宗教的ではありましたが、信仰的ではありませんでした。それは新約聖書にアベルのささげ方をこのように解説されているからです。アベルは(ヘブル書114) 「信仰によって」ささげたと。聖書は(箴言2127)「悪者のいけにえは忌みきらわれる。悪意をもってささげるときは、なおさらのこと」と教えます。神は私たちの動機といけにえの質の両方を見られるお方なのです。

 

.「罪への警告」

 神がアベルのささげ物を顧み、カインのささげ物を顧みられなかったのは、神がアベルを「えこひいき」したのではありません。聖書は教えます。(ローマ書211)「神にはえこひいきなどはないからです」と。

ですから、ささげ物が受け入れられなかったとしても、その責任は神にではなく、ささげた側にあるのです。カインは、自分のささげ物が神に受け入れられない理由が、自分自身にあることを認めて、素直に悔い改めるべきだったのです。

ところが、(創世記45節)「カインはひどく怒り、顔を伏せた」のでした。そのカインに神は(創世記4章6節)「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか」と悔い改めに導こうとされました。さらに(創世記47節)「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」と強く教えられました。

 間違った行いを指摘されたとき、私たちはどう答えるでしょうか。間違いを正しますか。それとも無視するでしょうか。私たちはカインの道ではなく、神の道を行きましょう。

しかし、私たちは自分の力では罪を克服することはできません。私たちは自分に必要な信仰を神に与えていただき、励ましと勇気を周囲のクリスチャンから与えてもらわなければなりません。聖霊は、私たちが罪を克服する手助けをしてくださいます。

 カインは神の語りかけと悔い改めへの導きを無視して、心をかたくなにし、アベルを殺してしまいます。神の警告を無視して、心の中にある罪を悔い改めないでいると、その罪は大きくなり、具体的な罪を生んでしまうのです。

 

結論)「神に喜ばれるささげもの」

 アベルのささげ物を新約聖書は(ヘブル書11章4節)「信仰によって」「すぐれた」ささげ物だと神が認めてくださったと言います。ですから私たちも神の喜ばれるささげ物をささげましょう。私たちも心からの最高のささげ物、信仰によるささげ物をささげましょう。

 

 また、間違った行いを指摘されたとき、私たちはどう答えるでしょうか。どうか、カインの道ではなく、悔い改める神の道を行きましょう。

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お花畑にたたずむ仲良し羊たち