1.テキスト「ヨハネ書1章35~51節」
2.タイトル「最初の弟子たち」
3.中心聖句「ヨハネ書1章39節」
「来なさい。そうすればわかります。」
4.本文「最初の弟子たち」
序)「著者ヨハネの関心」
著者ヨハネはヨハネ書1章で、イエスがどのようなお方かという「キリスト論」への関心を私たちに強く訴えています。すなわち、(ヨハネ書1章36節)「神の小羊」、(ヨハネ書1章41節)「メシヤ」、(ヨハネ書1章45節)「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」、(ヨハネ書1章49節)「神の子」、(同)「イスラエルの王」、(ヨハネ書1章51節)「人の子」と何度も繰り返し記されています。
また、イエスと出会ったアンデレの最初のことば(ヨハネ書1章41節)「私たちはメシヤに会った」からも知れます。「メシヤ」という語はヘブル語、あるいはアラム語の字訳です。これは「油注がれた者」を意味する名称です。ですから、旧約聖書において「メシヤ」はイスラエルの王(Ⅰサムエル記16章6節、Ⅱサムエル記1章14節)、大祭司(レビ記4章3節)、預言者(詩篇105篇15節)を意味しました。また新約聖書においても、イエスが「メシヤ」の三職制としての「預言者」、「祭司」「王」が記されています。アンデレがヨハネ書1章の時点で、イエスの3職制を十分に理解していたとは思われませんが、バプテスマのヨハネのことばをきっかけにそのように信じたのでした(ヨハネ書1章31~34節)。
どうか、私たちも本日のテキストから「メシヤ」であるイエスに改めて出会おうではないでしょうか。そして日々、造り変えられ続けましょう。
では、イエスと出会った三人の弟子たちについてお話します。
本論)「最初の弟子たち」
Ⅰ.「アンデレの場合」
(ヨハネ書1章35節)「ふたりの弟子」は、もともとバプテスマのヨハネの弟子でした。しかしヨハネが(ヨハネ書1章36節)「見よ、神の小羊」とヨハネが(ヨハネ書1章37節)「言うのを聞いて」、(同)「イエスについて行った」のでした。イエスの後について行った二人は、(ヨハネ書1章38節)「今どこにお泊まりですか」と尋ねています。おそらく、滞在先に通うつもりだったのでしょう。しかしイエスはそれに答えず、(ヨハネ書1章39節)「来なさい。そうすればわかります」と言われました。そこで彼らは(同)「イエスの泊まっておられる所を知」り、泊まりました。彼らは、一晩イエスと共に過ごす間に、イエスがバプテスマのヨハネの言う救い主であることを悟りました。アンデレは、前日にはイエスを(ヨハネ書1章38節)「ラビ(訳して言えば、先生)」と呼んでいました。それはイエスを教師の一人だと思っていたからでした。しかし、次の日には(ヨハネ書1章41節)「メシヤ(訳して言えば、キリスト)」と呼んで、兄弟シモンに紹介しています。イエスを救い主と認めたのです。
主なるイエスとともにいることによって、信仰は成長するのです。このことは、彼らに大きな変化をもたらし、すぐにこのことを伝えたいと思うようになり、兄弟に伝えたのでした。信仰はパートタイムなものではダメなのです。フルタイムなものなのです。その時だけではなく、常に主とともにあるために、臨在信仰のために、弟子は召されたのです。私たちもまた同じように、臨在信仰に生きるために召されているのです。
Ⅱ.「シモン(ペテロ)の場合」
(ヨハネ書1章41節)「メシヤ・・・に会った」アンデレは、(同)「まず自分の兄弟シモンを見つけて」、(ヨハネ書1章42節)「イエスのもとに連れて来た」のでした。(ヨハネ書1章41節)「メシヤ・・・に会った」、直訳すると(ヨハネ書1章41節)「発見した」アンデレは、漁をしていたのかもしれない兄を連れて来ました。イエスはシモンに目を留めて(ヨハネ書1章42節)「あなたは・・・シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします」と言われました。ケパとは、岩という意味です。イエスは、シモンという人物を、岩のように強固な者と呼んでくださるのです。そしてシモンはイエスに従いました。
主なるイエスは今も、どんなに弱い者をも、強い者と認めてくださいます。あなたが今はどんなに弱弱しい者であっても、強い者としてくださいます。イエスにお会いして従うなら、人は新しく造り変えられるのです。
Ⅲ.「ナタナエルの場合」
ナタナエルはピリポが連れて来ましたが、イエスは、(ヨハネ書1章47節)「彼のうちには偽りがない」と言われました。ナタナエルは不思議に思い、(ヨハネ書1章48節)「どうして私をご存じなのですか」と聞きます。イエスの答えは、(ヨハネ書1章48節)「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」、でした。そこで彼は、(ヨハネ書1章49節)「あなたは神の子です」と信仰告白を行います。
偽りのない人など、神以外に存在しません。ですからおそらくナタナエルは、イチジクの木の下で悔い改めの祈りをささげていたと思われます。当時は密室を確保できない庶民は野山に行って、祈りの時を持っていました。ですから、彼の悔い改めの祈りは神に聞かれ、罪赦されたので、イエスは(ヨハネ書1章47節)「偽りがない」と言われたのでしょう。ナタナエルは、そのことだけでイエスを神の子と言いますが、イエスは(ヨハネ書1章50節)「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります」と言われます。それは、天が開けて神の御使いがイエスの上を上り下りするのを見ることです。イエスの弟子になると天と地がイエスによってつながっていることを見るのです。人間は罪のゆえに神と交われず、天が開けないのです。しかし、イエスによって天が開かれ、神との交わりが回復されるのです。イエスに従っていく者は、その事実を見るようになります。
結論)「最初の弟子たち」
この三人だけではありません。主なるイエスに出会い、イエスに従い、イエスとともに生きる者を、イエスは造り変えられます。今、あなたが自分の弱さ愚かさに悩んでいるなら、イエスに出会ってください。そうするならば、必ずあなたは造り変えられます。イエスとともにあり、イエスに造り変えられ、イエスによって天と地がつながれていくのを見る生涯とさせていただきましょう。
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