葛西説教20241215
1.テキスト「ルカ書2章1~12節」
2.タイトル「クリスマスはすべての民に」
「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」
4.本文「クリスマスはすべての民に」
序)「現代のクリスマス」
力が支配する世界の現実を、私たちは日々目の当たりにしているのではないでしょうか?軍事力、政治力、経済力、技術力、学力、体力、その他さまざまなこの世の力によって、この世的な成功と価値は決定されます。それゆえ、力ある者となることに誰もが憧れる世界、それが現代世界ではないでしょうか。
しかし、最も力のあるお方は、最も力なき人の世に来てくださいました。それが、聖書が証しするクリスマスなのです。その意味を共に教えられましょう。
本論)「クリスマスはすべての民に」
Ⅰ.「無力な者たちに」
今からおよそ2千年前、イエスが誕生されたころ、地中海世界はローマ帝国が支配していました。カエサル暗殺後に覇権を握ったオクタヴィアヌスは、紀元前27年に(1節)「皇帝アウグスト」(尊厳者の意味)の称号を得、初代皇帝として君臨しました。彼は(1節)「全世界の住民登録をせよという勅令」を出しました。支配する人々を帝国の徴税や徴兵システムに組み込んで、ローマ帝国を強固にするためでした。ローマの貴族クレニオは、紀元前11年ころから軍事的にキリキヤ地方を制圧していました。シリヤ州の一部であったユダヤ、ガリラヤとその周辺は、イドマヤ人ヘロデが、ローマの後ろ盾を得て王になり、紀元前40年から紀元前4年まで支配しました。
このような権力者たちの多重支配のもとでは、民衆は実に無力でした。人々は命じられるままに、自分の出身地に行かなければなりませんでした。マリヤは、婚約者のヨセフが(4節)「ダビデの家系であり血筋でもあった」ので、(4節)「ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘム」まで、百数十キロの旅をしなければならなかったのです。出産間近の大きなお腹を抱えて、起伏の多い道を旅するのはつらかったでしょう。しかも、ベツレヘムでは人々の大移動のため、(7節)「宿屋には彼らのいる場所がなかった」のでした。ヨセフとマリヤは家畜部屋に泊まる他ありませんでした。ベツレヘムは当時人口数百人の小村であり、そもそも今のような宿屋は無かったとも言われています。そして家族の居室と客間と家畜部屋は一つ屋根の下にあったと言われています。
この旅路において生まれた主なるイエスは(9:58)「枕する所も」ない旅人の生活を送り、寄る辺なき無力な人々の労苦を共に味わってくださいました。まさに(ヘブル4:15)「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と言われているとおりです。
Ⅱ.「疎外された者たちに」
イエスが誕生されたとき、ベツレヘムの町の騒がしさをよそに、町はずれの郊外では、野宿している人々がいました。羊飼いたちでした。羊飼いは牧羊のために神殿礼拝に参加することができませんでした。野宿するために家の女性たちを守ることができないこと。他人の土地に生えている草を羊たちに食べさせていること。このような理由によって、彼らはユダヤ人から罪びととしてべっ視され、社会から疎外されていたと言われています。そして彼らは住民登録の対象にもされていなかったと言われています。
ところが、この羊飼いたちに主の使いが現れてクリスマスの知らせを伝えました。(10~11節)「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と。主の使いが最初にキリスト来臨の「福音を宣べ伝え」、すなわちクリスマスの知らせを伝えたのは、宮殿にいる王様でも、神殿にいる祭司でも、会堂にいる律法学者でもなく、野原にいる羊飼いたちでした。新約聖書は証言します。(5:32)「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」。(19:10)「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と。
Ⅲ.「すべての民に」
当時、皇帝は「ローマの平和」(パックス・ローマーナ)を世界にもたらした「救い主」「主」「平和の君」「国父」「神」であると教えられ、人々は崇拝すべきであると強いられていました。ユダヤ人はこれに激しく反発し、軍事的、政治的解放者(11節)「キリスト」を待望していました。
しかし、主の使いが告げた、(12節)「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」とは、どういう意味でしょうか?飼い葉おけは、当時の農民たちも出産によく利用していたと伝わっていますが。それにしても、これが救い主であるキリストの(12節)「しるし」であるとの意味は何でしょうか?
栄光に輝く(11節)「主キリスト」は、実に貧しい姿で人の世に来られました。それは主なるイエスは社会の底辺に至るまで、(10節)「この民全体のための」(マタイ書1:23)「インマヌエル」(神は私たちとともにおられる)ことの喜びの知らせとなるためだからです。
勧め)「クリスマスはすべての民に」
本日の聖書からのメッセージをどのように聞かれたでしょうか?どのように感じ、またどのように思われ、どのように考えられたことでしょうか?どうか、祈りを通して神に応答していただきたいと願います。
天地の主である神の御子は、小さな赤ん坊となってこの世に来られました。イエスは、神から離れて社会の底辺に漂う心寂しき罪びとの友となられました。主の愛は何と謙遜なものでしょうか。暗く汚い家畜部屋に生まれたキリストは、私たちの心にも宿ってくださいます。
どうか、この救い主を信じておられない方は信じましょう。そして、このすばらしい救い主をすべての人々に伝えましょう。
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