昨日、教会の前の花壇に「アジサイの花」が咲いていることを祈祷会に来られたご婦人から教えていただきました。おそらく数日前から咲いていたのでしょう。私は全く気がつきませんでした。何度も通っていたのですが期待していないので、この目では見ていたのに分からなかったのでしょうか。先日教会員の方から、このアジサイは花芽をつけていないので、今年は花をつけないかもと言われていました。それで期待していませんでした。期待していないと、目の前に好ましい事実があっても、そのことに気がつかないものなのですね、残念です。聖書を読むときも、目の前に広がる日々の出来事にも、このような残念なことのないようにしたいものだと思っています。
今朝は箴言6章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。
世界のどの国にも数え歌はあると言われていますが、旧約聖書を生み出したイスラエルにも数え歌があります。(箴言6章16節)「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある」と、一つの数字を述べて「6」、実際にはそれよりも一つ多い数字「7」の何かをあげるスタイルで、イスラエルの数え歌は綴られています。三つ、四つの数え歌は箴言30章15~31節にあります。
主なる神が倫理的に汚れたものと断罪し、憎まれるものが七つあげられています。それは、目、舌、手、足、証人、者、それぞれに関わっています(箴言6章17~19節)。人の体の部分からはじめて、最後には人自身が語られています。人のその体で何をするのか、主は注目しておられます。
(箴言6章19節)「まやかしを吹聴する偽りの証人」は偽る舌と共に働いて、偽証をし、人を陥れます。(同)「兄弟の間に争いをひき起こす者」、つまり、人々の間に分断をもたらす者を主は嫌っています。そして、彼らは倫理的に汚れていると箴言は宣言するのです。
自分の体を、人と人を結びつけるために用いているでしょうか。どのような難しい人とであっても協力が可能となるように努めているでしょうか。神が求めていることをしっかとと察知し、その実現のために働きましょう。
今朝の祈り
主なる神よ、あなたの民が協力して働けるように、私を用いてください。