今朝は箴言14章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。
(箴言14章6節)「あざける者は知恵を捜しても得られない。しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。」
知恵と愚かさは全く対照的です。たとえば、(箴言14章1節)「知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす」では、物理的な家ではなく、家庭を建てあげるのが知恵ある女性であること(参照 箴言31章10~31節)、せっかく建てたものさえも破壊してしまうのは愚かな女性であることが描かれています。
愚かな者が語る時、そのことばは(箴言14章3節)「誇りの若枝」にしかならないのです。ことわざに「暖簾に腕押し」とあるように、語るその人にとっては「誇り」であっても無意味なものなのです。ですから新共同訳では「傲慢の杖」。新改訳2017では「高ぶりへのむち」。口語訳では「自分の背にムチを当てるようなもの」と、自己破壊へと導くと訳されていますが、知恵ある者のことばは、自らをあらゆる破壊から守ります(箴言14章3節)。ですから、建てあげる力を持たないことばを語る愚かな者の前から、離れ去ることが勧められています(箴言14章7節)。
人のことばを何でも信じてしまう人がいますが、それは「わきまえのない者」、知恵を学習していない人です。「利口な者」、すなわち物事をちゃんと計算できるようになった人は、なんでも受け入れ、何でも言われた通りにするのではなく、適切に選び、慎んだ行動をとります(箴言14章15節)。「知恵ある者」は、用心深さ、すなわち恐れるべきものを恐れる勇気を持っています。「愚かな者」は「怒りやすく」、何も恐れないで「自信が強」く自分を誇ります。その結果、悲惨な目に遭うのです(箴言14章16節)。
ですから、知恵を学ぶべきです。知恵を学べば学ぶほどに、知恵を自分のものとすることがより容易になります。知恵は私たちに「たやすく知識」を与えてくれるからです。あざけり、高ぶる者は、どれだけ「捜しても」得られません(箴言14章6節)。「短気な者」で怒りやすい人は、知恵を学ばず、「愚かな」ことを行うばかりです(箴言14章17節)。
知恵は人格を建てあげ、整えられた品性、教えられやすさ、慎み深さを与えてくれます。だからこそ、知恵を追い求めるべきです。
今朝の祈り
知恵の源である主なる神よ、思慮のない私が知恵を学ぶことができようにしてください。