今朝は暑さも少しマシでしたので、体も電気代も助かります。そのような最近の目覚めの中でも気持ちの良い目覚めでした。昨日は教会で、神と教会から愛されている兄弟の記念礼拝が行われました。礼拝の中では、イエスのもとに信仰の勝利の凱旋を果たされた兄弟を記念して特別賛美と思い出が語られ、素晴らしい時を過ごすことができました。そのようなことを考えながら、その後の交わりのことも思い出していました。茶菓持ち寄りということでしたので、教会員の皆様の心を込めたものが集まり、心もお口も大満足となりました。鳥のコーラ煮、長崎からお取り寄せされたプレミアムな「浜んまちPNDDING」のプリン、様々な美味しいお菓子が集まりました。とてもよき時を過ごすことができました。ハレルヤ!
今朝は箴言15章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。
主を計算に入れて生活することを勧める格言が、10章以来、あまり登場しませんでした(14章には何回か出ていますが)。しかし、15章から、すべての人を見、全ての人に関わる主(箴言15章3節)についての格言が、頻繁に登場します。
主は、犠牲を献げることも、祈りをすることも喜ばれます。しかし、それに勝って、悪しき者であるか、まっすぐに生きているかを主は問われます。主の道をまっすぐに生きていないなら、すばらしい犠牲も祈りも、汚れたものであり、主はそれを受け入れられません(箴言15章8節)。「悪者の行い」、すなわち、生き方そのものに問題があるからです(箴言15章9節)。
富を多く持っても、苦労ばかりであったら幸せでしょうか。豪勢な食事を毎日味わうことができれば、憎しみ合っていても幸せでしょうか。主を恐れ(つまり主を心から愛して生きる)、互いに愛し合うことのほうが、粗食であっても、貧乏であっても、よっぽど幸せです(箴言15章16~17節)。神を愛し、隣人を愛するという律法の中心に生きることこそ、地上で良き生涯を送る秘訣です。
神を見下げない人、高ぶらない人(箴言15章25節)、人を生かし、神が喜ばれるきよいことばを語る人、人を陥れる計画など決してたてない人(箴言15章26節)、栄誉ではなく謙遜を求める人(箴言15章33節)こそが、神を愛し、主を恐れる人です。そのような生き方に知恵が表されています。それは、主が治めておられるこの世界で健全な生活を送る秘訣です。上「神」を見上げ、神が与えられるいのちの道を上がっていく人の姿です(箴言15章24節)。
今朝の祈り
すべてをご存知の主なる神よ、この地上であなたの前をどのように生きるのか、今日も問うてください。