今朝も厳しい暑さが続いていますね。この続く暑さは体にも電気代にも厳しいです。電気代を確認できるアプリで去年と比較すると1.5倍でした。ですから、昨日はクーラーを送風運転にして、どこまで耐えられるか試してみました。すると、今朝体重を測ると2キロぐらいやせていました。見た目はあまり変わりませんが。
しかし、あまり無理をして熱中症で倒れると教会の人にも故郷の両親にも迷惑をかけることになるので、ほどほどにクーラーも使用しながら節電したいと思います。
今朝は箴言19章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。
「富ではなく、あわれみを」(新改訳第三版)
(箴言19章1節)「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。」
富は良く、貧困は悪い。これは少し乱暴に聞こえますが、箴言はこのことを肯定しています。たとえば、(箴言19章4節)「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される」と。富がきっかけで友人が増えるが、貧困に陥ったがために友を失う、といった冷たい現実を語っています。
貧しい人にも家族はありますし、親せきもいます。ところが、「兄弟」と呼ばれる親せきですら、貧しくなった人を救おうとせず、むしろその人を憎みます。本来ならば、親せきの者を救う必要があるのに、それを果たそうとしません。それは自分が損をするからです。ましてや、友人は貧しい人に近寄りません。そのように箴言は語るのです。
箴言はこのようなリアルな現実を語りつつも、旧約聖書が求めている。あるべき姿をも語っています。(箴言19章17節)「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」。イスラエルの神である主は、貧しい者を顧み、彼らを支えるのです。主のこのわざを具体的に行うのは、主の民です。ですから、貧しい者をあわれみ、彼らを助ける、という主のわざに励む者は、その貧しい人に何かをするとともに、「主に貸す」というすばらしい特権にも与ることになります。そして、貧しい隣人にしたように、祝福をもって主はあわれみ深い人に恵みを注がれます。
貧困そのものは、知恵ある者としての人格を貶めるものではありません。「正しく」(もしくは、「全き生き方をもって」)歩む貧しい人は、人をおとしめることばを語る愚かな者よりもはるかに優れているのですから(箴言19章1節)。主への忠実さ、いつくしみ深さを求めて歩みましょう(箴言19章22節)。
今朝の祈り
主よ、富ではなく、あわれみを追い求める者としてください。