ナジル人として生きる

  本日は外気温は34度です。ただし、風が少し爽やかになってきましたね。危険な暑さが終わりに近づいているように感じました。故郷の両親に様々なことがあり、しばらくブログを書けませんでした。今、人の地上での歩みには限りがあるのだと思わされています。

 また、両親から信仰書が送られてきました。タイトルは「神との友情~あなたを変える祈り」とあります。この本は、「祈りとは神との友情を育てることである」と教えています。

 そもそもクリスチャンの祈りは他の宗教と異なっています。それは次の2点において、神がご自分を人類にお与えになっていることから生じます。一つは、人を神のかたちに、神に似る者として創造されたこと。そして神の御子イエス・キリストを地上に送られたことです。

 ですから、クリスチャンの祈りは何だか分からない神格化された対象や、人格を持たない神秘的な力に向かって捧げる祈りとは異なるのです。祈りとは神の豊かな愛と親密さから生まれる神との睦まじい交わりなのです。それを一言で言うと「神との友情」なのであり、そのことを教えてくれる本です。

 

 今朝は民数記6章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。    

   

(民数記65)「彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。」 

 

 民数記6章は、旧約聖書中で唯一のナジル人に関する個所です。ナジル人とは、原語で「ナーザル」、すなわち「分離する」を意味することばです。ここでは生涯をナジル人として過ごしたサムソンやバプテスマのヨハネのような人のことではなく、一定期間を定めて誓願を立てる人の規定です。

 彼らは、聖別の期間中、まったく己を主に献げ、この世の汚れに染まらないようにしました。飲酒せず(世と一線を引く行為)、頭に剃刀を当てず(ナジル人として公に表す行為)、死体に触れないように(親しい身内の葬儀にも出ず)などの聖別生活に専念したのでした。

 しかし、これは預言者や祭司階級などの特別に神に選ばれた人々のためだけの規定ではありません。普通のユダヤ人が厳しく自分を律し、信仰生活に徹し、誓願期間を過ごすものです。ですから、誓願期間が満ちても、祭司や宮仕えをするのではなく、普通に日常生活の中で主に仕えます。

 ある教会の証しで、神に献身しておられる信徒の方の話が語られていました。その方は教会で青年期にイエスの恵みを賜り、洗礼を受けました。それから70年にわたって、日本海に面した寒村で家庭を解放し、毎週家庭礼拝を守り、地域の方々にトラクトを配り、礼拝前に、教会に来て諸準備をして礼拝者を迎えていたそうです。いつも、人の目につかないところでイエスを愛し、教会を愛し支えたそうです。その後昇天されましたが、複数の兄弟姉妹が、同じ奉仕を分担して引き継いだそうです。ここにたましいの救い、信仰の結果を見させていただいた思いがします。

 聖書は教えます。(Ⅰペテロ189)「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」と。 

 

今朝の祈り

 それぞれの置かれた場所で、私にできることをもって、主にお仕えできますように。年老いた両親が神から与えられた人生を感謝をもって神とともに走り切れますように。 

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 
仲良し老夫婦の羊が並んだロッキングチェアに座ってくつろいだ様子。