主は心を見る

 本日は少し秋を感じる1日でしたね。日差しはまだ強いですが、吹く風に秋を感じました。

 

 両親から贈られた信仰書「神との友情~あなたを変える祈り」の序文には、初代教会の教父アレキサンドリアのクレメンスの言葉が紹介されています。「祈りとは神との友情を育てること」と。

 著者はそのことで「神に立派な祈りを捧げようとすることより、祈りの生活の中で神と交わろうとする姿勢が育」ったと語ります。そしてこのことばで、祈りとは「私の最も弱い部分を用いて」霊的に強く成長に導くものであるとの、大切な真理に至ったと言います。つまり「神は私たちを召し、私たちのアキレス腱、すなわち頼りない、つまずきながらしか歩めない私の最も弱い部分を用いて、私たちが生来の弱さや自分の人格の深い傷をくぐり抜け、霊的に強く成長するように、導かれるお方である」ことを発見したと言うのです。また、祈りつつ神と共に歩みたいという自分の願いを生活の最重要項目にすることを固く決心します。そして著者にとって、「祈りは公の働きよりも先に来る」ものとなったと言います。すなわち、奉仕を語る時、祈りファーストの原則、また祈りつつ奉仕をすることは、神の臨在の中で奉仕することを意味するのではないかと。

 私もこの当たり前のことに改めて気づかされました。日々のやるべき奉仕に追われて、祈りを忘れてはいないかと。重要なのは、祈りに始まる奉仕、祈りをささげつつ教会生活、信仰生活に生きることなのだと。

 

 今日は民数記7章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。 

  

   (民数記711)『主はモーセに言われた。「族長たちは一日にひとりずつの割りで、祭壇奉献のための彼らのささげ物をささげなければならない。」』

 

 モーセが幕屋を完成して、油を注ぎ、聖別した時に、族長たちは、感謝をもってささげ物を主の前に、部族ごとに携えてきました。レビ人がそれを受け取り幕屋の働きに用いたのでした。この時、主なる神はモーセに、一度に受け取らず、一日にひとりずつ、必要に応じて、必要なものをささげるように命じられました。

 実は、これは当たり前のことではありません。民数記712節から83節まで、同じことを同じように各部族の族長たちがささげ物を携えて来たことが記されています。神へのささげものは、競い合ったり、他人の目を気にする心でささげるものでもありません。使徒の働き5章にあるアナニヤとサッビラのようになってはいけません。

そして、12部族が同じように主に心からの喜びをもってささげ、主に受け入れられたのです。

 自動車メーカーのトヨタでは、製造の現場で「かんばん方式」を用いて生産効率を高めていることは有名ですね。「かんばん方式」とは、必要なものを、必要なだけ、必要なときに製造する生産方式です。まさに神が、3000年以前前に、幕屋の祭壇奉献のためのささげ物をささげる時に教えられたそのものです。「かんばん方式」を取り入れる企業は、世界中に満ちています。しかし、成功する企業は少ないと言います。それは、形式は真似できても、「トヨタ・マインド(精神・心)」を理解する必要があるからです。

 神への供え物についても、神への感謝を忘れて、いつの間にか、義務的になり形式的になってはいないでしょうか。

 

(Ⅰサムエル167)「主はサムエルに仰せられた。「・・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」と。

民数記7章の教えは、現代の教会にも大切なことを教えています。

 

今日の祈り

 十字架の血をもって贖いくださった、イエスにいつも感謝する心で満たしてください。その感謝の心で、教会生活、信仰生活を行えるようにしてください。

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 
神に祈る羊