昨日の厳しい残暑から一転して、今朝は本格的に秋を感じました。
両親から贈られた信仰書「神との友情~あなたを変える祈り」の序文から、祈りについての私の大きな誤解を指摘されました。
すなわち、祈りとは人間の宗教行為というのは見えるかたちなのであって、その霊的本質は「祈りという行為をなさるのは神の御霊」だということでした。ですから、クリスチャンの祈りは、他宗教の伝統から着想を得た祈りとは全く異なるということです。17世紀フランスの聖職者フェネロン大司教も「私に祈ることを教えて下さい。私のうちで、私たちを通して、あなたご自身がお祈りください」と言います。聖書も言います。(エペソ人への手紙6章18節)「どんなときにも御霊によって祈りなさい」と。
また、祈りという行為は、ことばと信仰の行為にとどまらず、正しい生き方によって導かれるものだということです。それは私たちのうちにきよめのみわざを働かれる御霊によって祈っているからです。キルケゴールも「祈りは神をではなく、祈る者を変える」と言います。ですから、私たちの祈りは、神が私たちの状況や考え、感情を全くご存じないかのように、逐一神に報告するために祈るのではないのです。聖書も言います。(マタイ書6章8節)「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」と。
ですから、神と共にある交わりの中で、私たち自身が全く新しい人とされてゆくために、主の祈りのように「あなたのみこころが行われますように」と祈るのです。聖書も言います。(Ⅰヨハネの手紙5章14節)「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」と。
そうした祈りの中で、私たちの全存在は、祈りの生活と祈りに働く聖霊によって新しい人、神のかたちに造られ続けてゆくのです。そういう祈りに導かれることこそ、他宗教の伝統ではなく、イエスが教えられた「主の祈り」に教えられた祈りなのですね。
今日は民数記8章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。
(民数8章5~6節)『主はモーセに告げて仰せられた。「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。」』
主なる神は、イスラエルの人の中から神に仕える者としてレビ人を選び分けて聖別するように命じられました。なぜ、神は多くのイスラエル人の中から、レビの人々を選ばれたのでしょうか。ある神学者は、「どの部族よりも人数が少なかったからである」と言います。確かに、(レビ記3章39~43節)「レビ人は、・・・一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった」と記されています。
私は敬虔なクリスチャンの両親のもとに育てられ、母親のお腹の中にいる時から礼拝に出席していて、生まれてからも幼い時から教会学校に通い、中学生にあがってすぐに洗礼を受けたクリスチャンです。
しかし、正直、品行方正100%の人生を歩んできたとは呼べない者でした。
ですから、洗礼を受けるために必要な信仰告白、信仰の決断は確かに私の意志でしたが、今から振り返りますと、私が救いを求めて神の手を握ろうとしたというよりも、神の側から憐れみゆえに罪びとの私に近づき、私と手をつないでくださったとしか言えないと感じています。聖書も言います。(エペソ人への手紙1章4節)「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」とのことばは真理であり、私もその神の選びの一例なのだとしか言えません。ハレルヤ!
イエスの12弟子のひとりであった使徒ペテロは、(Ⅰペテロの手紙2章9節)「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と言います。私たちは神に選ばれてクリスチャンとさせていただいているのです。レビ人たちは、きよめの水を注がれ、さまざまな方法で全身をきよめて、罪祭の犠牲の血をささげて聖別して、神に仕える務めを許された者とされました。それはエジプトの地で、エジプト人のすべての初子の犠牲をもって、イスラエル人が救われました。その時の「初子の代わり」として、「レビ人」が選ばれました(レビ記8章16~18節)。
この選びには、大きな恵みの特権があります。レビ人たちは、臨在される神のそばで、礼拝に関わる務めにあずかる者でした。そして神のひとり子イエスの十字架の血潮による選びを私たちも賜っています。聖書は言います。(エペソ人への手紙1章5節)「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」と。クリスチャンは神の選びのゆえに、神の子としていただいているのです。
そして、私たちにもレビ人と同じように、神に仕える栄誉ある務めが与えられています。それは、クリスチャンが(Ⅰペテロの手紙1章2節)「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた」者だからです。ですから、クリスチャンである私たちには「イエス・キリストに従う」という栄誉ある神に仕える務めを賜っているのです。
また、(Ⅰペテロの手紙1章18~19節)「むなしい生き方から贖い出されたのは、・・・傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」と言われています。ですから、この世の「むなしい生き方」から離れる「聖別」された生き方という栄誉をも賜っているのです。ハレルヤ!
今朝の祈り
この世の泥沼の中から、私たちを選び、イエスの血潮の贖いに与らせていただいてありがとうございます。