抜けるような青空に紅葉の映える季節になりましたね。
両親から贈られた信仰書「神との友情~あなたを変える祈り」の第一部「祈りがなければ」の第一章「祈りと格闘する」の冒頭は「あなたの心の扉を見つけよ。/そうすれば、/そこが神の国の扉であることを発見するであろう。」(ヨハネ・クリュソストモス)で書き始められています。
そこで教えられたことがあります。それは著者が述べる祈りについての本が、すでに何冊も出版されている中、なぜここでもう一冊書こうとしているかとの理由からでした。それは著者の「人はそれぞれの時代に、それぞれの文化、またそれぞれの経験の中で神を見出さなければならないから」との記述でした。まことに絶対的な神のみことばに対して、どの時代においても究極的にはどこまでも相対的でしかない神学のことばの関係性です。その相対的関係性について、聖書翻訳が時代を越える中で「文語訳」、「口語訳」、「新改訳」の改版、「新改訳2017」の登場の流れから、また注解書も「新聖書注解」、「バイブル・ナビ(新改訳2017/解説・適用付)」などの登場の流れからも裏付けられることですね。
そこで、その関係性をよく理解しないと、「天国のことを思うときも、そのような人間関係から導き出した自分なりの理解を持ち込み、自分の経験の範囲内で神をとらえてしまう」過ちからどのようにして守られるかという願いが与えられました。
著者は述べています。「本書は、このようなネガティブなイメージに支配された『私たちの父』をもはや礼拝し続ける必要はないこと、『私たちの主イエス・キリストの父』を心から礼拝するためにこそ私たちは贖われたことを、確認する助けとなってほしいという願いから書かれました」と。
私はこの本の学びで「聖霊によって私たちの主イエス・キリストを通して『アバ』(父)なる神に祈る、豊な生き方に入る」という正しい選択ができようになりたいとの願いを強く与えられました。
今日は民数記9章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。
「1カ月遅れの過越しの祭り」(新改訳第三版)
(民数9章10節)「あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人は【主】に過越のいけにえをささげなければならない。」
エジプトの地を出た翌年正月、一日に会見の幕屋を建て終わり、12日間の族長たちによる祭壇奉献の儀式が終りました。その翌日が、この過越しの祭りということなのでしょう。幕屋の献堂とは、イスラエルの民にとって神の臨在の証しとなりました。この時のイスラエルの人々の喜びは、どのようなものであったことでしょう。ところが、この幸いな過越しの祭りに参加できない人々がいたのでした。おそらく民数記9章6節は、身内の人の死による葬りのため、身を汚し過越しを守れなくなった人々への主のご指示でした。
彼らの訴えに、モーセは即答を避け、主にお伺いの時をもちました。律法順守をもってイスラエルの従順の訓練を進めて来た時です。大祭司には、いかなる場合でも、死体に触れて汚れることはゆるされませんでした。けれども、神の恵みにあずかる機会を、この人たちから奪いたくない思いやりがこのところには溢れています。
ですから、あわれみ深い主なる神はお応えくださいました。(民数記9章10~11節)「あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人は主に過越のいけにえをささげなければならない。第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜といっしょにそれを食べなければならない」と。すなわち、1カ月遅れの過越しです。何と神の憐れみ深さの底に、底は無いのです。
新約聖書は神の愛を教えます。(ヨハネ書3章16節)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と。ああ、驚くべき神の愛。旧約聖書も新約聖書も神のこの驚くべき愛を証ししています。ハレルヤ!
ある姉妹の証しです。「うちの主人は絶対に救われません。○○主義で頭がカチコチで、目に見えない神なんか、全く理解しようとしませんから」と、断言されていました。しかしながら、しばらく後、ご主人の誕生の祝いに、革の大型聖書を贈られました。それは「破られ、捨てられる覚悟」のうえでした。ご主人は、聖書を手にして、最初に記された定価の額を確認しました。そしてこんなに高価なものは、読まなければもったいないからと、一ページ一ページ読み進めたそうです。そして律法の記されたところを読むうちに、「かあさん、僕は神を信じるよ。こんなに行き届いた律法を与えられたお方は、神に間違いないから」と。
旧約聖書は教えます。(伝道者の書11章1節)「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」と。また新約聖書も教えます。(Ⅱテモテへの手紙4章2節)「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と。
聖書は伝道における人間の働きにあるむなしさという目に見える現実の働きの厳しさと、神の全能の働きのご支配のもとに伝道はあることを教えます。すなわち、伝道は神の臨在という霊的働きを信じることの大切さを聖書は教えます。まったく信仰の世界の不思議です。(マタイ書13章12節)「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです」とは厳しいですが、真実なのですね。クリスチャン全ての奉仕、献身は神の臨在と信仰が実を結ぶキーワードなのですね。
まさに伝道とは「ブドウの木」の関係、神の臨在の関係なのです。(ヨハネ書15章4~7節)「わたし(イエス)にとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。・・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」と。イスラエルの人々は幕屋を通して、クリスチャンは信仰によって賜った聖霊が神の臨在の証し、ブドウの木の関係を結んでいるのです。
今日の祈り
恵みの神を感謝します。この神に全身全霊をもって、お仕え申し上げます。