いつのまにか、めっきり日が短くなってきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今日は民数記10章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。
タイトル「臨在の雲の導きに従って」(新改訳第三版)
中心聖句(民数10章11~12節)「第二年の二月二十日に、雲があかしの幕屋を離れてのぼったので、イスラエルの人々は、シナイの荒野を出て、その旅路に進んだが、パランの荒野に至って、雲はとどまった。」
出エジプトから2年後の2月20日、イスラエル人はシナイの荒野をついに離れて旅立ちました。この間に、十戒や、数々の律法、礼拝の場としての幕屋、礼拝の手段としての犠牲、そして、集団行動を促す2本のラッパなど、必要になるものを神は準備万端に整えてくださいました。神は実に行き届いたお方なのです。聖書は証言します。(エレミヤ書29:11)「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」と。クリスチャンの人生の旅路も同じなのです。ハレルヤ!
彼らは、ユダの部族から旗を立てて、整然と進みます。そこには乱れがなく、数百万の民族が家族や家財、家畜をも伴っての大移動です。(ヨハネ書6:39)「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである」とのイエスの教えも、旧約聖書のこの出来事を証しします。
最初の行軍は、三日間でした。エジプトを出て、紅海を渡り、敵を振り切って勝利の行軍を経験したのだから、もっと早く約束の地に行けるのではないか、あの華々しい奇跡をもう一度と願うこともあるでしょう。しかし、信仰に生きる私たちは、毎日華々しい奇跡に生きるのではないのです。私たちは普通に、平々凡々に神とともに生きるのです。しかし平々凡々な普通の日常に神の御手が伴っていてくださっているのです。ある牧師が聖地を訪れたとき、模型のマナを見たそうです。米粒より大きめの豆粒のようなものだったそうです。これがマナならば、それぞれが満腹になるほどに、荒れ地の上で拾い集め調整するのは大変だと思わされたそうです。平々凡々、普通ではあるけれど、しっかりと日常の信仰の歩みを重ねてこそ、私たちの約束の地は保証されているのです。ハレルヤ!
今日の祈り
恵みの神を感謝します。この神に全身全霊をもって、お仕え申し上げます。