落葉した樹々の凛とした姿に、暮れゆく秋を感じるころとなりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今日は民数記11章を読みました。その中でふと感じ、また考えさせられたことです。
タイトル「ああ、肉が食べたい」(新改訳第三版)
中心聖句
(民数記11章4節) 『また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい」』。
お話
民数記11章からは神とともに生きるクリスチャンが学ぶべき多くの点を教えられると考えます。それは私たち「罪赦された罪びと」の心に浮かぶ「不平」をどのようにするかです。イスラエルの人々が不平を言ったので、モーセも不平を言いました。しかし、神からの返答は、モーセに対して肯定的であり、残りの人々に対しては否定的でした。なぜでしょうか?残りの人々は、互いに不平を言い合い、何も成し遂げませんでした。それに対してモーセは、自分の不平を、どんな問題でも解決できる神のところへ持っていきました。あなたならどうしますか?多くの人は、お互いに不平を言い合うことが多くはないでしょうか?私たちは、問題に対処することができる唯一の方に、その問題を持っていくことを学ぶべきなのです。
4節の「混じってきていた者」を新共同訳では「雑多な他国人」と訳しています。ちなみに新改訳2017では「混じって来ていた者たちは」です。映画の「十戒」の中にも他国人が含まれて描かれていました。いつも問題の発火点のような描かれ方をしていました。他国人が悪いのでしょうか?そうではありませんね。イスラエル人の多くも他国人の影響を受けてしまっていたのです(1~9節)。
ある牧師の証しで、飽食についてのくだりがありました。それは神学生の時、終戦記念日に学校の昼食ですいとん(うどん粉をこねて団子状にして、だし汁に入れたもの)を大なべいっぱいに作って出したそうです。すいとんは物の無い戦後の定番食でした。ですから、「懐かしい」との歓声が起こったそうです。しかし食べ始めてしばらくすると、全員が無口になり、作ったほとんどが食べ残しになったというのでした。戦後から高度成長期を経て、ものが満ち足りて飽食の現代、粗食には耐えられなくなるものなのかもしれません。
ネゲブの荒野にイスラエルの重い罪を犯した人を収容した刑務所があるそうです。しかし、ここには大した囲いも無いというのです。その理由をガイドは、収容所を逃げ出しても、ネゲブの荒野を数時間さまようなら、生き残れる人は一人もいないので、逃げ出す犯罪者はいないと説明したそうです。
ですから、この過酷な(民数記13:17)「ネゲブ」の荒野での旅路で、(民数記11:6)「マナ」は神からの養いの恵みなのです。しかし、毎日同じ物、単純なくり返しなので、その恵みさえも不満に変わってしまったのでした。(6節)「何もなくて、このマナを見るだけだ」と。それが罪人である人間の本性というものなのでしょうか?
毎朝イスラエルの人々は、自分の天幕の入り口を開けて、この「マナ」の奇跡を見ていました。目の前の地面は、神からの食物であるマナで覆われていました。
しかし、すぐに、マナだけでは満足しなくなります。すでに持っているものを忘れて、もっと受ける権利があるように思うようになりました。彼らは、自分たちが必要としていることを満たしてほしいと神にお願いするのではなく、肉が欲しいと強く要求し、ついには神を信頼することをやめてしまったのでした。
その結果はどうなったのでしょうか?神は、彼らが欲しい物をお与えになられましたが、宿営全体を疫病が襲いました。彼らの支払った代償は想像以上のものでした。私たちが何かを神に願うとき、神は私たちの要求を承諾してくださるかもしれません。しかし、もし罪だらけの態度で神に願うのであれば、たとえ与えられても、それ相応の代償を支払うことになるのです。
私たちはどうでしょうか?私たちの目線が、持っているものから、持っていないものへ変わると、不平が生じます。神は人々をエジプトの奴隷から解放され、一つの国民として、新しい土地を与えようとしておられました。しかし、彼らは神がしてくださらないことばかり考えていました。彼らは、エジプトに置いてきた美味しい食物のこと以外、何も考えられませんでした。エジプト人の奴隷として容赦のないむち打ちを受けることが、その食物の代償であったことを忘れて不平を言っているのでした。この出来事を今読む私たちは、イスラエル人をさばく前に、私たちも、自分の時間のほとんどを費やしていることは何かと考えてみる必要があるでしょう。
神が与えてくださったものを感謝しているでしょうか?あるいは、いつも欲しいもののことばかり考えていないでしょうか?自分の欲望が満たされないからといって、神からの贈り物であるいのち、食物、健康、仕事、友人への感謝を忘れることがあってはなりません。
驚くべきことに、この人々のつぶやきにさえ、憐れみ深い神は応えてくださいました(Ⅰヨハネ4:8)。第一は、民のリーダー70人に(17節)「あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。」と。更に(31節)「海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした」のでした。
ところが、豊富なウズラに欲が絡んだ人々は、集め過ぎた物が痛んで、(33節)「疫病」に苦しむ結果を起こしてしまったのでした。それで(34節)「欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ」のでした。
様々な欲望におぼれて地獄を見る人々が多くいます。今、問題になっている「闇バイト」も、その一例でしょう。ですから、どうか誘惑に陥らないように、日々の祈り、賛美、デボーションを通しての神との交わり、神の臨在、神への感謝で生きることが大切です。
今朝の祈り
不断の恵みに囲まれている私たちです。慣れから、感謝を忘れて、欲望に陥るあやまちから、私たちをお守りください。