葛西説教20240721
1.テキスト「士師記14:1~20」(士師13:1~16:31)
2.タイトル「サムソン」
3.中心聖句「士師記13:5」
「その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。」
4.本文「サムソン」
序)「聖別による力」
(Ⅱテモテ2:21)「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです」。
主のための奉仕において、力ある働きをするための必須条件は、世のもの、肉の思いから聖別されることです。サムソンは豪胆で剛力の持ち主でした。しかし、この強さが彼に不幸をもたらしたのです。彼の生涯は、両親の祈りによって与えられた聖別を失っていくプロセスと言うことができます。どんなに賜物が豊かであり、一時的に力ある働きができたとしても、聖別された生活がなければ、主の働きに用いられ続けることはできません。サムソンの生涯は、明確に私たちにそのことを教えています。
しかし、サムソンの生涯の最後について聖書は(士師記16勝28~31節)「サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。…」。… そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。…こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。…サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた」と記しています。
ですから、たとえどんなに長くあなたが神から離れていても、神はあなたの話を聞き、あなたを正しいつながりに回復させる準備ができておられます。もし神にもう一度救いを求めるならば、すべての状態は回復されることが可能なのです。
本論)「サムソン」
Ⅰ.「聖別された誕生」
イスラエルの民が再び悪を行ったので、ペリシテ人の手に陥っていた頃、信仰深いマノアの子として、サムソンは誕生しました。誕生の前に現れた主の使いのことばによって、彼はナジル人として育てられました。ナジル人の特徴は、①酒を飲まない、②汚れたものを食べない、③髪をそらない、というものでした。民数記6章では、②が「死体に近づかない」という条件になっていますが、身を汚さないという意味では同じと考えてよいでしょう。
信仰深い両親から生まれる子は幸いです。誕生前から祈られ、誕生後も祈りの中で育てられるからです。しかし、どんなに両親の信仰があつくても、子どもがそれを受け継がない場合もあります。
Ⅱ.「聖別を損なう生活」
サムソンが青年になったとき、彼は(士師記14:1)「ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見」ました。「彼女と結婚したい」と言う彼を、「異教徒の妻を迎えるのはやめよ」と両親は諭しますが、彼は聞き入れようとしませんでした。
さらに彼は、両親に内緒で、自分が殺したライオンの死体から蜜を取って食べました。これは②の条件を破る行為でした。
また、当時の習わしに従って、結婚式の振る舞いをしました。当然ぶどう酒も出され、サムソンも飲んだに違いありません。これで①の条件も破られました。彼は聖別された生活をすべきだったのに、彼は一つ一つそれを失っていきました。ついには、酔った勢いで出した謎解きがきっかけで、彼はペリシテの町に暴虐を働くことになります。女性が泣いて求めるので、謎の答えを打ち明けたことは、後のデリラの場合と同様、彼の本質的な弱さを表しています。
ペリシテ人との戦いは、さらにエスカレートしていきます。(士師記14章19節)「主の霊が激しくサムソンの上に下った」ので、彼は神の力でペリシテ人に向かっていきました。しかし、彼の生活に祈りはありません。いや正確には、士師記15章18節に一度だけ祈っていますが、それは水を求める勝手な祈りでしかありませんでした。
そしてサムソンの悲劇は、デリラという女性を愛したところでクライマックスに達します。ソレクの谷に住んでいた彼女は、おそらくペリシテ人と思われます。彼女は賄賂に動かされて、サムソンの力の秘密を探り出そうとしました。3度はごまかしたサムソンも、彼女の執拗な迫りに耐えきれず、ついに真相を話してしまいます。ナジル人の条件➂であった長い髪の毛をそられてしまった彼には、もう何の力もありませんでした。サムソンは、(士師記16章20節)「主が自分から去られたことを知らなかった」のでした。
神を信じる人の力は、神の臨在にあるのです。ですから聖別を損なっていくなら、神の臨在は失われ、そして力も失っていくのです。サムソンは、約束の地でのイスラエルの姿をそのままに表しています。
Ⅲ.「聖別を回復した最期」
神学者の小島伊助は「目の欲に従った彼は目をくりぬかれた」と言います。聖別を失ったサムソンは、ペリシテ人の笑いものにされるために、ダゴンの神殿に引き出されます。しかし、彼の髪の毛は再び伸びだしていました。そして(士師16:28)「この一時でも、私を強めてください」と祈り、神殿の柱をへし折ったのです。彼はペリシテ人と共に死んでしまいました。しかしここに、祈りに応え、回復を与えられる神のあわれみを見ることができます。神は悔い改めて再び神に従う者に、回復を与えようとしておられるのです。
結論)「サムソン」
サムソンの生涯は、イスラエルの姿を描いています。きよい神の民でありながら、そのことを忘れ、汚れてしまった民にも、神のあわれみは残されています。
ですから、悔い改めて「私を強めてください」と祈る態度が必要なのです。ギデオンのように慎重に御心を聴いて従うこと、またサムソンのように悔い改めて神のあわれみを求めることが、約束の地で堕落してしまった者の回復の道となるのです。
たとえどんなに長くあなたが神から離れていても、神はあなたの話を聞き、あなたを正しいつながりに回復させる準備ができておられます。もし神にもう一度救いを求めるならば、すべての状態は回復されることが可能なのです。
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