葛西説教20240825
1.テキスト「出エジプト記33章12~23節」
(説教テキスト 出エジプト記32章1~33章23節)
2.タイトル「破れに立って」
3.中心聖句「詩篇106篇23節」
「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」
4.本文「破れに立って」
序)「十戒を守れない民」
神から選ばれたモーセが十戒を民に語ったとき、民は、(出エジプト記24章3節)「主の仰せられたことは、みな行います」と約束しました。その後、再びモーセはシナイ山に登り、そこで幕屋に関する定めを教えられました。しかし、その期間が40日40夜続いたために、山のふもとにいた民は、(出エジプト記32章1節)「あのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」と言い出します。そして、早くも十戒を破り、アロンに偶像の神を造らせます(出エジプト記20章4節)。今週はこの時にモーセがしたとりなしの祈りについて教えられます。
新約聖書も(Ⅰテモテ書2章1節)「すべての人のために、・・・願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と教えます(エペソ書6章18節)。「とりなし」とは、英語の「intercede」の語源が示すように、「間に入る」という根本的な意味があるのです。間に入り、一致と平和をもたらすのです。ですから、クリスチャンは平和をつくりだすのです(マタイ書5章9節)。また、神と人の間もとりなすのです(Ⅱコリント5章18~20節)。
本論)「破れに立って」
Ⅰ.「神の怒りをなだめる祈り」
偉大な指導者モーセが不在で、気弱になった民は、目に見える偶像を造ります。アロンは、民の求めに応じて(出エジプト記32章5節)「あすは主への祭りである」と、まことの神である主と、金の子牛を同一視する始末でした。民もアロンも、明らかに十戒の第一戒と第二戒に背いています。主は、まだ山の上にいたモーセに向かって(出エジプト記32章10節)「わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ」と仰せられます。
その時モーセは、三つの理由をあげて、主の怒りをなだめようとします。第一に、偉大なみわざでエジプトから導き出したイスラエルの民は(出エジプト記32章11節)「ご自分の民」であること。第二に、エジプト人は主が(出エジプト記32章12節)「悪意をもって彼らを連れ出したのだ」と、主なる神を侮るようになること。第三に、「アブラハム」ら父祖への「誓い」が果たされなくなること(出エジプト記32章13節)。
詩篇の作者は、このことを(詩篇106篇23節)「神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか」と記します。怒っておられる神の前に立って祈ることは、簡単ではありません。これこそ、まことのとりなしの祈りです。主はくだそうとされた災いを思い直されました。
Ⅱ.「自分を身代わりにする祈り」
山から下ったモーセは、子牛の周りで踊る民を見て、怒りのあまり神のことばが記された二枚の石の板を投げつけて砕いてしまいます。そして、言い訳をするアロンを頼まず、(出エジプト記32章26節)「だれでも、主につく者は、私のところに」と民に悔い改めを呼びかけます。彼の属する部族であるレビ人がそれに応え、彼らは悔い改めない者たちを殺しました。悔い改めない者は、必ずさばかれなければなりません。
しかしその翌日、モーセは民をとりなすために再び山に戻ります。彼は(出エジプト記32章30節)「あなたがたの罪のために贖うことができる」と考えていました。彼は、罪の赦しのためには、償いが必要であることを知っていて、民の罪が赦されないなら、(出エジプト記32章32節)「あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」と祈りました。主は10節で、彼を「あなたを大いなる国民としよう」と言われましたが、モーセはそれを返上して祈ったのです。けれども主の答えは、(出エジプト記32章33節)「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう」というものでした。たとえモーセであっても罪は償えません。正しいさばきを神に委ねるのが正しい罪に対する態度です。モーセは、さばきを神に委ね、ともかく神にカナンの地にイスラエルの民を導くことを命じられました(出エジプト記33章1節)。
Ⅲ。「神の臨在を求める祈り」
さらに主は、イスラエルの民がかたくなであるので、一人の使いを遣わしてくださるが、(出エジプト記33章3節)「あなたがたのうちにあっては上らない」と仰せられます。それは、イスラエルの民がかたくなで、主に滅ぼされてはいけないからです。
三度モーセは、今度は天幕にて、とりなしの祈りをします。まず、道を示してくださいと祈ると、主は(出エジプト記33章14節)「わたし自身がいっしょに行」くとの約束を与えられました。そして主が一緒に行かれないと、何によってイスラエルが聖くされ、何によって諸国の民に証しができますかと祈ると、そのこともしようとの答えがありました。神の臨在によってのみ、イスラエルは(出エジプト記33章16節)「地上のすべての民と区別される」、つまり聖い民となることができるのです。
このように祈った後、モーセは神の栄光を見ることができました。主の顔を直接見ることはできませんが、主は約束の地までこの民と一緒に行ってくださると、モーセは確信したのです。
結論)「破れに立って」
不信仰な民のために、モーセは三度にわたって神の怒りを留め、身代わりとなり、神の臨在を示してくださるように祈ります。思えば、主なるイエスも神の怒りを留め、十字架の死と復活を通して身代わりとなり、神の臨在を示すため、この地上に来られました。モーセは旧約聖書の時代に、この主イエスと同じ働きをされたのでした。
そして、私たちクリスチャンにも(Ⅰテモテ書2章1節)「すべての人のために、・・・願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と命じられています(エペソ書6章18節)。皆様、救いのみわざにクリスチャンひとり一人が召されているのです。
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