福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年9月1日(日)礼拝メッセージ

「罪の侵入」

葛西説教20240901

1.テキスト「創世記31から24節」

2.タイトル「罪の侵入」

3.中心聖句「創世記322節」

4.本文「罪の侵入」

 序)「最初の人間の罪」

 主なる神が天地万物を創造されたとき、(創世記131)「見よ。それは非常に良かった」。しかし、現在の世界には罪が満ちています。本日開かれた聖書箇所から、どうしてこのような世界になったのか、その理由が分かるでしょう。

 創世記3章は、人間が最初に犯した罪を記録しています。その後、人間が増え広がるにつれて、様々な種類の罪が犯され、罪が人間にもたらす影響も複雑化しています。今、世界にあふれる罪の本質と、その結果は人間の最初の罪の場合と全く同じです。

 罪の本質とは、具体的な罪を犯す前に、神の愛への疑い、神のことばの真実性への疑いがあります。また、善悪の判断を、神に頼らず自分でできると考えること、すなわち、神のようになろうとする高慢があります。この不信仰と高慢こそ、罪の源泉であり本質です。これは、親子の関係、学校の先生と生徒の関係にも当てはまるでしょう。

 そして、罪の結果について聖書は警告します。(新改訳第三版と新改訳2017 創世記217節)「あなたは必ず死ぬ」と言われた神のことばの意味は、罪の結果としての肉体の死だけではなく、神との関係の断絶を表す霊的な死、さらに永遠の滅びをも含んでいたのです。

 

本論)「罪の侵入」

.「神のことばへの誤解」

 主なる神の被造物の一つである蛇を通して、サタンがエバに語りかけました。どういうことばを用いたかはわかりませんが、その目的は明確です。サタンは、エバが三つの点で神のことばを誤解するように仕向けました。第一に、「神」が与えられている大きな自由を疑わせました(創世記31)。その結果エバは、神の命令は厳しいものだと思ってしまいました(創世記323)。第二に、神のことばは偽りであると欺きます(創世記34)。そして第三に、神が悪意をもっておられると思わせました(創世記35)

 今でも、サタンは同じような手口で、私たちに神のことばを疑わせようとします。聖書は「何々せよ、何々をするな」と命令する堅苦しい書物だとか。聖書は昔の神話が記された本で本当の話ではないとか。神は罰ばかり与える恐ろしい神だとか思う人は、私たちの周りにもたくさんいることでしょう。そういう人々が「知識人」であろうと「科学者」であろうと、その背後にはサタンがいることを見抜かなければなりません。

 (創世記34)「あなたがたは決して死にません」とのことばは不思議です。木の実を食べたアダムとエバは、肉体的には死んでいません。しかし、神から身を隠したことからわかるように、神との霊的な関係においては死んでしまいました。それはまさに、放蕩「息子」が父のもとを離れた時に「死んでいた」者となったのと同じです(ルカ書1524)。そしていずれは肉体も死んでしまい、さらにその後に神のさばきを受けて永遠に滅びるのです。

 

.「神に代わって神のようになる」

 エバは(創世記35)「あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」というサタンのことばに乗せられて、その木に近づきます。そしてその木を見ると、それは(創世記36)「食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」と思われました。Ⅰヨハネ書216節に書かれているように、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」という欲が罪を引き起こしました。エバはついに「その実」「食べ」、アダムにも分け「与え」ました(創世記36)

 善悪を知る木の実を食べるとは、人間が神に代わって善悪を決めて行動し、その結果で善悪を知っていくということです。全てが(創世記131)「非常に良かった」地に、人間が自分勝手な基準で善悪を定めようとしたことが問題なのです。本当は、善悪を定めることができるのは神だけです。人間が自分勝手に善悪を定めるなら、自分に都合の良い事は善で都合の悪い事は悪になってしまいます。それは自分を神の位置に置くことに他なりません。被造物に過ぎない人間が神のようになろうとする、このような的外れな行為こそが罪です。

 前に学んだ神の「かたち」とは、神の定めた善悪に従うことであって、神に取って代わって神になることではありません(創世記126)。傲慢に神と等しくなろうとすることではなく、謙遜に神のことばに学び、従うことなのです。

 

Ⅲ.「罪を犯した結果」

 木の実を取って食べた二人は、蛇の言ったとおりに「目」「開」けましたが、それで分かったことは皮肉にも「自分たちが裸であること」でした(創世記37)。創世記225節と反対に、自らの姿を恥じるようになったのでした。そして裸の恥を隠そうと必死になるのみか、神の前から逃げようとさえしました。それでも神は、(創世記39)「あなたは、どこにいるのか」と、彼らを尋ね求める愛の神でした。

 彼らは最後には永久に生きることのないように、「エデンの園から追い出され」ます(創世記323)。しかし、神学者バックストンはこれを愛の審判と言います。「狙われたる有様にて、神を離れたる有様にて、限りなく(永遠に)生きますならば地獄です」と。このエデンの園追放には、民数記5章が教える神の聖別の本質、神の愛があるのです。神の聖別の本質は、排除の背後にある神の愛です。イエス・キリストの十字架と復活という福音が、彼らを尋ね求めているのです。パウロも愛するテモテに教えています。「正しい良心を捨てて、信仰の破船に会」った人に対して、「彼らをサタンに引き渡し」「神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせ」なさいと(Ⅰテモテ書11920)

ですから教会戒規は、違反者をキリストのもとに戻らせ、教会の愛に満ちた抱擁に戻すような方法で行われなければならないのです。戒規の定義には次のことばが含まれます。強くすること、きよめること、訓練すること、懲らしめること、完全にすることです。聖書的教会戒規は、有罪宣告、疑い、赦しを与えずにおくことや、永久追放であるべきではないのです。

 

結論)「罪の侵入」

 神は今でも(創世記39)「あなたは、どこにいるのか」と尋ね求めておられます。その問いかけに、身を隠す人もあれば、罪の姿のままで神の前に出て、悔い改める人もいます。もし、私たちが神のお声に気付くなら、正直に「ごめんなさい」と告白し、神の子どもとして神のかたちを取り戻す道に戻りましょう。 

東京都江戸川区東葛西6丁目37-3 福音伝道教団 葛西福音キリスト教会 かさいふくいんきりすときょうかい 
楽園を出て、砂漠をさまよう羊