葛西説教20240922
1.テキスト「ヨハネ書1章19~34節」
2.タイトル「ヨハネの証言」
3.中心聖句「ヨハネ書1章26節」
4.本文「ヨハネの証言」
序)「神の小羊と贖罪の神学」
(ヨハネ書1章29節) 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。ヨハネはイエスを小羊と証言しました。小羊と訳されることば「アムノス」は、新約聖書中4回使用されています(ヨハネ書1章29と36節・使徒の働き8章32節〈イザヤ書53章7節引用〉・Ⅰペテロの手紙1章19節)。いずれの場合もイエスを指し示しています。これらはイエスの贖罪のみわざを強く主張しています。イエスご自身が、私たちの罪の責任を取り除く、唯一究極の犠牲となり、神への道、天国への道を開いてくださいました。
このヨハネ書にあるイエスの贖罪の神学は、ヨハネの第一の手紙で更に展開されています(Ⅰヨハネの手紙1章7節、2章2節、4章9~14節)。
本日は「ヨハネの証言」からイエスの贖罪について学び、さらにはヨハネのように私たちもイエスを人生の中心に置き、そして謙遜に神の「声」に徹して伝道しましょう。
本論)「ヨハネの証言」
Ⅰ.「自分は声、メシヤはことば」
当時、ヨハネは多くの人々に注目されていました。しかし、自分は旧約聖書に預言されているキリスト、つまりメシヤではないと宣言しました。また、「エリヤ」の再来(ヨハネ書1章21節・マラキ書4章5節・ルカ書1章17節)でもないと語ります。また、モーセが言っていた(ヨハネ書1章21節・申命記18章5節)「あの預言者」でもなく、ただ(ヨハネ書1章23節・イザヤ書40章3節)「荒野で叫んでいる者の声」にしかすぎないと語ります。荒野とは、人生の試練や苦しみを描いています。クリスチャンであっても、これらを免除されませんが、私たちの神のみことばへの信仰は、神の慰めと回復の恵みをもたらします。
このヨハネ書の冒頭では、主なるイエスは(ヨハネ書1章1節)「ことば」として紹介されています。ここで注意する点は、声とことばには大きな違いがあるということです。神学者バックストンは「声は直ちに失われます。けれどもことばは永久にあります。声は忘れられます。ことばは忘れられません」と。伝道者に必要な謙遜について教えています。
Ⅱ.「主なるイエスは人生の中心」
さらにヨハネは、自分の後に来るお方、イエスの(ヨハネ書1章27節)「くつのひもを解く値うちもありません」と言いました。当時は、「くつのひもを解く」のは奴隷の仕事でしたが、それさえする値打ちもないとは、このイエスというお方がどれほど偉大であるかを証言しました。イエスは言われました。(ヨハネ書8章12節)「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と。
ヨハネは自分がイエスの奴隷である値打ちもないと言いました。しかし、聖書は(ルカ書7章28節)「ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」と証言します。ですから、私たちは神に仕える初めに、ヨハネのように自分の高慢さを捨てなければならないのです。聖書はクリスチャンに「謙遜」を勧めています(コロサイ書3章12節・第一ペテロの手紙5章5節)。
私たちは、このイエスこそ、本当の「主」であり、私たちの人生の中心であると証言しましょう。全ての中心はイエス・キリストです。仕事の中心、家庭の中心、教会の中心、そして世界の中心も主なるイエスです。全ては主イエスのためにあり、主イエスのものであり、主イエスによって成り立っているのです(ヨハネ書1章3節)。
Ⅲ.「世の罪を取り除くお方」
その翌日、ヨハネはイエスに会いました。そして開口一番に証言しました。(ヨハネ書1章29節)「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と。この「小羊」は、過越しの祭りのときにほふられる小羊(出エジプト記12章3節・29章38~42節)、あるいは苦難のしもべを象徴する小羊(イザヤ書53章7節)を指し示していました。ヨハネとイエスは親せきなので(ルカ書1章36節)、ヨハネが (ヨハネ書1章31節)「私もこの方を知りません」と言うのは不自然でした。おそらく、この時までメシヤとしては知らなかったのでしょう。イエスが公の伝道の働きを始められる直前に、ヨハネはイエスが人類の罪を取り除くお方であることを知ったのでした。そして自分を「声」でしかないと言う謙遜な者こそが、この真理を発見させていただけるのです。
世の罪を取り除くことこそ、メシヤの使命です。ヨハネは、人生の中心であるお方が、また罪を取り除くお方だと証言します。それも小羊として取り除くのです。神の一人子イエスの十字架での犠牲のゆえに、罪は取り除かれるのです。ですから、まだイエスを信じておられないなら、今、イエスを信じて罪の赦し、天国への切符を手に入れて欲しいのです。
Ⅳ.「聖霊のバプテスマを授けるお方」
新約聖書のマタイ書、マルコ書、ルカ書の共観福音書はすべて、ヨハネがイエスにバプテスマを授けたことを記しています。その中で、ヨハネ書だけがその記事を省いています。代わりに(ヨハネ書1章32節)「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました」とヨハネの証言をヨハネ書に記しています。このイエスの栄光を見たからこそ、ヨハネは(ヨハネ書1章33節)「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」と知ったのでした。
ヨハネの使命は、(ヨハネ書1章33節)「水でバプテスマを授け」ることです。これは罪の悔い改めの象徴です。しかし、(ヨハネ書1章33節)「聖霊によってバプテスマを授ける」とは、新しいいのちを与えることです。これは神の御子イエスにしかできないことです。ヨハネは水のバプテスマの限界を十分に知っていました。本当に必要なのは、神の霊に満たされ続けて、神のいのちをいただくことです。人にいのちを与えることができるのは、メシヤのイエスだけです。
まとめ)「ヨハネの証言」
主なるイエスこそ、私たちの人生の中心であり、人の罪を贖うお方であり、聖霊で満たしてくださるお方です。これが救い主の使命であり本分です。ヨハネは当時、誰も理解していなかったこの真理を与えられ、そのことを証言する声に徹しました。私たちも人生の中心にイエスを置き、イエスによって贖われ、聖霊に満たされて、この真理の福音を伝える声になりましょう。
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