2022年11月6日(日) 第1主日礼拝メッセージ
葛西説教20221106②
1.テキスト「マタイ16:21-28」
2.タイトル「十字架の道」
3.中心聖句「マタイ16:24」
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
序)「はじめに」
先週は、ペテロさんの「あなたは、生ける神の子キリストです」という信仰告白について学びました。とても大切な信仰告白でした。今日はその続きです。
本論)「十字架の道」
Ⅰ.「十字架と復活の予告」
イエス様は弟子たちに十字架と復活という衝撃的な内容のことを告げられました。すなわちこの後、イエス様はエルサレムに行かれ、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられるということでした。その多くの苦しみとは、十字架にかかられ、苦しみの中で死なれるということを意味していました。おそらくイエス様がお話されたその瞬間、弟子たちはことばもなく、その意味を受け取れずに静まり返ったことでしょう。「えー。尊敬し、かつ最愛のイエス様が苦しみを受けつつ死なれるなんて。そんなことがあるものか。信じられない。」と。そのような思いが弟子たちの胸の中にあふれたのではないでしょうか。弟子たちのリーダー格のペテロさんは、イエス様をわきへ引き寄せ言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずありません」と。
すると、イエス様は振り向いてペテロさんに言われました。「サタンよ、引き下がれ、私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と。そのイエス様の激しいことばにペテロさんはとても驚いたことでしょう。それはイエス様から「サタン」と言われ、また「私の邪魔をする者」と呼ばれたのですから。
Ⅱ.「父なる神様のみこころ」
なぜ、イエス様はペテロさんにそのようなことを言われたのでしょうか。イエス様にはペテロさんのイエス様への気持ちがわからないのでしょうか。いいえ、そうではないのです。
イエス様は、一番残酷でおそろしい死刑の方法である十字架にかけられるようなことは一つもされませんでした。それなのにご自分から進んでエルサレムに行かれ、十字架にかかられたのです。
それは、父なる神様のみこころに従われるためでした。私たちの罪の身代わりとしてイエス様が十字架の上で罰を受けられることは、神様のご計画でした。イエス様は神様が私たちを救い出したいと願っておられることをよく知っておられたのです。ですから、イエス様が神様のみこころに従っておられる時に、その邪魔をするサタンに対して、お叱りになったのです。
Ⅲ.「自分の十字架を負って」
そのあと、イエス様は弟子たちに言われました。「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」と。十字架とは、いやなこと、つらくて苦しいことです。だれでも苦しいことは、避けたいものですね。しかし、イエス様は私たちのために進んで十字架の道を歩んでくださったのです。
ですから、私たちもいつもイエス様の十字架を想い、イエス様に従おうではないでしょうか。
また、私たちが十字架を負うとき、決して一人で負うのではないのです。イエス様も共に十字架を負ってくださるのです。苦しくつらい中にも、イエス様を信じて十字架を負い従う時、すばらしい祝福の道が開かれるのです。
一人の素晴らしい賛美をつくったファニー・クロスビーの証しをお話したいと思います。彼女は赤ちゃんの時に両目が見えなくなってしまいました。それで、友達と遊んでいても、役に立たないと言われていたそうです。そう言われて彼女は泣きながら家に帰り、イエス様にお祈りしたそうです。「神様、私は目が見えません。でもあなたの子どもなんでしょう?だから、人には役に立たないものであっても、神様には役に立つ子供にしてください」と。彼女の生涯につくった賛美は、5千とも6千とも言われています。
勧め)「十字架の道」
私たちのために十字架におかかりくださったイエス様を信じ、そしてどこまでも従い続けて行きましょう。どんなに苦しく、悲しいことがあっても、イエス様の弟子として、最後まで従う者にしていただきましょう。
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