葛西説教20231119①
1.テキスト「マタイ16:21~28」
2.タイトル「イエスと、私の十字架」
3.中心聖句「マタイ16:24」
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
序)「イエスの喜ばれること」
皆さん、イエスに喜ばれることって何でしょうか?イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい」と言っています。それは、イエスが自分の罪のために死んでくださった救い主と信じること、そして、イエスを心に迎え入れ、つらいこと苦しいことがあっても信頼して従うことです。
本日はイエスの十字架を学びましょう。そして私たちにそれぞれ神から与えられている人生や家族と向き合いましょう。そして、神を賛美しましょう。
Ⅰ.「十字架と死の予告」
ペテロが信仰を告白し、祝福を受けました。聖書は「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」(21)と。
「その時から・・始められた」という聖書の書き出しは、イエスの新たな宣教のページが開かれたことを教えます。マタイ4:17もそうでしたね。これまでイエスは広く公に群衆に宣教されましたが、この後は、「自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた」(20)、受難を予告して、エルサレムに向かわれるのです。
イエスはエルサレムで「長老、祭司長、律法学者たち」すなわち最高議会の議員たちによって捕らえられ、不当な裁きを受けて処刑されることを予知し、覚悟しておられました。「主のしもべ」であるイエスの死は、人類の罪を贖うために父なる神が計画されたことなのです(イザヤ53章)。
この時、弟子たちはイエスの使命について十分に理解していませんでした。聖書は「ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」と(22)。「神の御恵みがありますように」は直訳で、口語訳と新共同訳では「とんでもないことです」と訳されています。一見、イエスの身を案じているようですが、イエスはペテロを厳しく叱責されました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と(23)。サタンは何とかしてイエスの贖罪の十字架を失敗させようとしています(4:8.9)。イエスにとって十字架の苦しみは、父なる神から断絶されて黄泉に落とされる恐るべき経験でした。できることなら、避けたいものであったでしょう(ゲッセマネの祈り26:39)。しかし、イエスはペテロの口を通して語りかけるサタンの誘惑を退けられました。
先に、天の父の啓示によって信仰を告白したペテロが、今はサタンの手先になっています。「邪魔」の原語には「つまずかせる岩」という意味があります。教会の基礎となるべき使徒でありましたが、「肉に属する人」(Ⅰコリント3:1)であり、不確かで頼りになりません。
そこでイエスは真の弟子の道を教えられました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と。まだ弟子たちは群衆同様、メシヤはイスラエルの民を政治的軍事的にローマ帝国から解放する者だと思っていました。ところが、ローマの極刑である「十字架」がイエスの弟子の必然だと言うのです。これは彼らには厳しいものでした。実際、イエスが十字架の横木を背負い、縦木の立つゴルゴダの丘へと歩かれた時、彼らはイエスを見捨てて逃げ去りました(26:56)。
「自分を捨て」る自己否定の道はたやすいものではありません。自己実現を追求する今の人にはなおさらでしょう。しかし、主が言われた「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだす」という法則は真実です。神の使命を果たす時、人は自らの絶対的な存在意義を確信し、永遠の喜びを得るのです。自分を捨てることができるのは、キリストが命をかけて愛してくださった自己存在の尊さを知り、献げるべき自我が確立しているからです(ガラテヤ2:20)。
したがって、十字架は決して敗北ではありません。イエスは死によって人類の罪を贖い、サタンを無力にし、主を信じる者に永遠のいのちと天国の国籍を賜られました。主を信じる者は「死を味わうことはない」とされています。ローマ帝国を征服しても、「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」と。イエスは約束されました。「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします」とあるように。十字架の道を歩む者には、大きな報いが用意されているのです。
勧め)「イエスと、私の十字架」
クリスチャンの地上の生涯は十字架を負う道です。これは決してやさしい道ではありません。しかし、この道のゴールには復活の栄光があるのです。最後まで主に従いましょう。神学者のカルヴァンは「十字架なしに栄冠は無い」と言っています。
イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい」と言っています。ですから、イエスが自分の罪のために死んでくださった救い主と信じること、そして、イエスを心に迎え入れ、つらいこと苦しいことがあっても信頼して従うことです。
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