葛西説教20230219①
1.テキスト「ルカ19:1-10」
2.タイトル「イエス、失われた人を捜して」
3.中心聖句「ルカ19:10」
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
4.本文「イエス、失われた人を捜して」
序)「宣教の可能性」
「宣教の可能性」について、皆さんはどのように考えておられますか。イザヤの宣教について神学者は、「心をかたくなにするメッセージ」だと言います。その「心をかたくなにするメッセージ」が、ある時点で「目が開かれ、聞いて悟るメッセージ」に変えられる日のあることを、イザヤは信じていた。しかしイザヤの全生涯は「心をかたくなにするメッセージ」の枠から抜け出ることは許されなかった。イザヤの生きた時代、ユダの人々の心は腐れ果て、不信の思いに満ち、回心への道にほど遠かった。それでもイザヤ書は、イザヤが「心をかたくなにするメッセージ」の具体的体験をしていけばいくほど、神の絶対主権の下にある不可能を可能にする道が開くのを見せられたと教えます。
ですから、本日はザアカイの話から、「イエス、失われた人を捜して」というタイトルで、「神の絶対主権の下にある不可能を可能にする道が開く」その場面を見てみましょう。
本論)「イエス、失われた人を捜して」
Ⅰ.「失われた人、ザアカイ」
その人の名前はザアカイ。ザアカイはエリコの町ではとても有名な人でした。でも立派なことをして有名になったのではありません。彼は取税人といって、ユダヤの人々から支配者ローマに納める税金を集めていたのです。しかも彼はその親分のような立場です。彼は、いつも人々からむりやりに、しかも自分の給料分も含めて集めました。ですから財産をたくさん蓄えました。欲しいものは何でも買え、おいしいごちそうも食べることもできました。彼は目に見える物に不自由はしなかった。しかし、支配者ローマのため、不正な税を強引に集める彼は、人から憎まれ嫌われていました。ザアカイは神様に選ばれたアブラハムの子、その血筋に生まれました。しかしその生き方は、正反対な罪深い生き方です。ザアカイは神様から遠く離れた失われた人でした。
Ⅱ.「救い、イエス様との出会い」
そんなある日、イエス様がエリコの町に来られました。大勢の人たちがイエス様のもとに集まって来ました。イエス様のうわさを聞いていたザアカイも、一目イエス様を見てみたいと思い、イエス様のもとに行きました。ところが、イエス様の周りには、すでにたくさんの人でいっぱいです。背の低いザアカイはとても見ることができません。しかも、みんなザアカイに意地悪して通せんぼするのです。何としてもイエス様を見たいザアカイはそばにあったイチジク桑の木によじ登りました。それでようやく木の上からイエス様を見ることができました。ザアカイは多くの財を持ち、ローマの威を借りた彼に、人々は表立って逆らうことはできないでしょう。しかし、ザアカイはイエス様に自分の持っていないもの、いやザアカイにとって一番必要なものを持っていると感じていたのでしょう。
しばらくするとイエス様が来られました。その時です。実に驚くべきことが起こりました。イエス様が木の下で足を止めて、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日あなたの家に泊まることにしています」と。ザアカイはとても驚きました。彼はイエス様にお会いするのはこの時が初めてでした。それなのにイエス様は彼の名前を呼ばれたのです。嫌われ者のザアカイの家を訪ねる人など一人もいなかったでしょう。しかし、イエス様がザアカイの家に泊まってくださるのです。
Ⅲ.「生まれ変わったザアカイ」
ザアカイは、イエス様の招きに応えして、大急ぎで木から降りました。そして喜んでイエス様と一行を家に迎え入れました。そしてイエス様たちをごちそうし、イエス様の話を聞いているうちに、ザアカイは自分の罪が示されました。心を入れかえたザアカイはイエス様に言いました。「主よ、私はこれから自分の財産の半分を貧しい人々に施します。そして不正な取り立てをした人には、四倍にして返します」と。
イエス様はこのことばを聞いて喜ばれました。そして「今日、救いがこの家に来ました。私が来たのは、失われた人を捜して救うためなのです」と言われたのです。
ザアカイはお金持ちでした。でもどんなにお金があっても神様のもとから離れた人は失われた人なのです。その失われた人にイエス様が自分から近づき、すばらしい救いの道を開いてくださいました。ザアカイは心から罪を悔い改め、イエス様を信じて救われました。どんな人でもイエス様を信じるなら新しくつくり変えられるのです。
勧め)「イエス、失われた人を捜して」
ザアカイを招かれたイエス様は、今日も失われた人を捜しておられます。今日、皆様を招かれておられます。どうか、ザアカイのように、今までの罪を悔い改めて心からイエス様をお迎えしましょう。
また「宣教の可能性」は、伝道が「心をかたくなにするメッセージ」と感じられても、「神の絶対主権の下にある不可能を可能にする道が開く」ことを信じ継続する中で、見させていただけるのです。ですから、私たちも、「失われた人に」イエス様のように「自分から近づき、すばらしい救いの道を」伝え続けましょう。
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