葛西説教20230305①
1.テキスト「マタイ21:1-11」
2.タイトル「王なるイエスの十字架」
3.中心聖句「マタイ21:9」
「ダビデの子にホサナ」
4.本文「王なるイエスの十字架」
序)「宣教の力」
私は今、交通事故で歩行に困難と痛みを感じています。2023年度のスタートを切る前に、出足をくじかれた思いでいます。なぜ、神様は私に弱さを与えられたのでしょうか。そのような時、教会の年間みことばイザヤ26:7、前節のみことばに目が開かれました。「貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。」(イザヤ26:6)とあります。それは弱くされた足の私に、宣教とは何かを神様は教えようとされているのでは、との思いが与えられたからでした。イザヤも「かたくなにするメッセージ」という困難な召命を堂々と語り続けました。その理由について神学者は、イザヤの召命体験(イザヤ6章)での、徹底的な神の聖さの体験と、神のみ前での自己の滅びの自覚があったからだと。だから「心をかたくなにするメッセージ」と聞いても動揺しなかったと。
この2023年度、私たちは宣教を考える上で、見えるところ、思うところが困難であると感じるかも知れません。しかし、私たちもイザヤのように、デボーションや礼拝で神のきよさと罪の問題について教えられ、考え続けましょう。それがイザヤのように、「心をかたくなにするメッセージ」を人々に伝え続ける宣教の力となるでしょう。
では、本日からイエスの十字架に向けてのお話をしていきます。そこで私たちは「神の聖さ」と「人の罪深さ」に和解と赦しを与える十字架への思いを新たに深めたいと思います。
本論)「王なるイエスの十字架」
Ⅰ.「預言の成就」
十字架にかかられる数日前のことです。イエス様は、弟子たちと一緒に、ベテパゲという町に到着されました。この町は、エルサレムの近くの、オリーブ山に沿った所にありました。
イエス様は、二人の弟子に、「向こうの村へ行って、つながれているロバを引いてきなさい」と言われました。そして「ロバの持ち主が何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言えば、すぐに貸してもらえるでしょう」と、言われたのです。
弟子たちは、向こうの村にロバがつながれていることや、主人がすぐにロバの子を貸してくれることを、イエス様がどうして知っておられるのだろうと、不思議に思いました。
彼らが出かけて行くと、イエス様の言われたとおり、ロバがつながれていて、そばに子ロバがいました。
彼らが縄を解いて、ロバを引いていこうとすると、ロバの持ち主が、「おいおい、わたしのロバをどうするつもりなんだ?」と尋ねます。彼らはイエス様の言われたとおりに「主がお入り用なのです」と答えました。すると主人は、「わかりました。どうぞお使いください」と言って、すぐにロバと子ロバを貸してくれました。すべてイエス様のお言葉通りでした。そして、このことは旧約聖書のメシア預言の成就でした。
Ⅱ.「王なるイエス」
こうして弟子たちは、ロバと子ロバをイエス様のもとに連れて来ました。弟子たちが子ロバの上に自分たちの上着をかけると、なんとイエス様はロバの子の上にお乗りになったのです。子ロバに乗られたイエス様は、まるで王様のように堂々としておられました。
一緒について来ていた群衆は、来ていた上着やしゅろの木の枝などを道に敷きました。そして、口々に叫びます。「ダビデの子にホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。」
「ホサナ」というのは、「今、お救いください」という意味のことばですが、「ばんざい」と同じような意味で使われていました。彼らは、ロバの子に乗られたイエス様に、「ホサナ、ばんざい」と叫んでほめたたえたのです。
イエス様は、町中の人たちから大歓迎を受けられ、王様としてエルサレムに入って行かれました。それは、何のためでしょう。宮殿の王座に座るためでしょうか。いいえ、十字架におかかりになるためだったのです。
Ⅲ.「十字架のイエス」
十字架は、そのころ、もっともひどい罪を犯した人がつけられるものでした。イエス様は、何一つ罪を犯されなかった神の御子です。何も悪いことをされなかったお方なのに十字架にかけられたのです。そして、それは私たちのためでした。イエス様の十字架は私たちの罪の身代わりの十字架でした。
ですから、誰でも罪を悔い改めて、十字架を信じるなら、罪が赦され、救われるのです。
さらに、救われた後も、わがままな心や、神様に喜ばれない汚れた心を、イエス様は十字架の血できよめてくださいます。イエス様を王として心の中にお迎えするなら、私たちは喜んで神様の御心に従っていくことができるようになります。私たちをそのように造り変えてくださるのが、王なるイエス様であり、十字架のイエス様なのです。
勧め「王なるイエスの十字架」
イエス様は私たちの王様です。私たちも王なるイエス様に喜んで従う者にならせていただきましょう。そしてまだ、イエス様の十字架を信じておられない方がいらっしゃいましたら、今、イエス様の十字架を信じていただきたいのです。先に救われた者は、この王なるイエス様、十字架のイエス様を宣べ伝えていきましょう。
そしてその宣教の力となるのは、まず自らの十字架体験です。十字架は徹底的な神の聖さの体験と、神のみ前での自己の滅びの自覚を思い起こさせるでしょう。
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