福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2023年6月4日 礼拝メッセージ

「試練の意味」

葛西説教20230604

1.テキスト「出エジプト16:1-12

2.タイトル「試練の意味」

3.中心聖句「出エジプト16:6.7

「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地から

あなたがたを連れ出されたことを知り、朝には、主の栄光を見る。」

4.本文「試練の意味」

 序)「聖書が描く人々」

 人生には私たちが願わないことも起こります。苦しむ、悲しむこと、試練と呼ばれることです。でも聖書は私たちに神からの試練の意味を教えます。そして、そんな時こそ、あなたの人生に神の栄光が輝くことを知ってほしいのです。

聖書は人間の真の姿を割り引くことなくリアルに描き出します。紅海の海渡りという決定的勝利によってイスラエルの人々の士気は一時的に高揚しました。しかし彼らを待ち構えていたのは、荒野で大集団が生存してゆかなければならないという飢餓との戦いであり、また、自治共同体を新しい環境の中で早急に形成してゆかなければならないという問題でした。更に、新しい敵が彼らの行く手を阻んだこうした様々な障害です。聖書が描くイスラエルの人々の姿、それは理想化された人間像でも、手本とすべき社会集団でもありません。そこにあるのは、神の恵みを容易に忘れてしまう赤裸々な罪深い人間の姿です。しかしそのさなかにあって、神により頼むことがどんなに大切なことであるかを、聖書は一つ一つの事件を通して注意深く記しています。度重なる困難に人々は疲れ、神への信頼の度合いは薄くなります。しかも彼らが行進して行く方角は、約束の地カナンとは全く異なった方角です。疲れと酷暑と食糧難と、そして目的地を知らされずに果てしのない荒野を旅することは、彼らを底知れぬ不安に陥れた。しかし、試練の中にこそ、神の栄光は輝くのです。

 

.「ストーリー」

 紅海を渡って三日間、イスラエルの人々は全く水を見つけられませんでした。三日目に、彼らはやっと捜し当てて喜んだのですが、その水は苦く、とても飲めるものではありませんでした。そのため、彼らは、「私たちは何を飲むのか」とつぶやき始めました。そこでモーセは、神に教えられた木を、その水の中に投げ入れました。すると水が甘くなり、飲めるようになったのです。

 イスラエルの人々は、これまでエジプトで起こされた10の奇跡を体験し、ほんの三日前には海が二つに分かれる奇跡によってエジプトの軍隊から救われて、神の偉大さを、身をもって知ったはずでした。しかし、少しの苦しみや我慢しないといけないことがあると、すぐつぶやいたのです。そこで神は、「あなた方がわたしの声に従うなら、エジプト人に下した病気を下さない。わたしは主であってあなたをいやす者です。」と約束されました。神は、イスラエルの人々が約束を守り、神の声に従うか、試みておられたのです。

 イスラエルの人々は、エジプトを脱出して一か月後に、シンの荒野に到着した。ここでもまた彼らは、モーセとアロンに向かって文句を言い始めました。今度は食べ物のことです。「エジプトで食べていた肉やパンが食べたい。空腹で死ぬくらいなら、エジプトの奴隷だった方がよかった」とまで言うのです。つい前まで、奴隷の苦しみが耐えられずに叫んでいた人々とは思えません。

 そこでモーセは、神に教えられた通り彼らに向かって言いました。「あなたは、私に対してではなく、神に対してつぶやいているのです。でもあなたがたは、夕方には神が主であることを知ることになります」。神は彼らの声に応えられました。夕方にうずらが飛んできて地に落ちます。次の朝になると、後に「マナ」と呼ばれる、うろこに似た薄い煎餅のようなものが降ってきました。神は、朝、その日の自分の分のマナを集めるようにおっしゃいました。そしてこのマナは、荒野を旅した40年間、毎日降り続けました。それは、多く集めた人も余ることなく、少なく集めた人も足らないことはありませんでした。このことは、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きることを教えたのです。ここでも神は、イスラエルの人々が約束を守って、神に従うかどうかを試みておられるのです。

 

.「ここでの真理」

 荒野の旅は、この後40年続き、そこでイスラエルの人々は試みにあいます。それは、彼らが神の声に従うかどうかを見、神を人生のどのような場面でも主とすることを学ばせるためでした。私たちは試練の中で、神の栄光を見ることができるのです。

 

.「あなたはどうしますか」

 皆さんは、この一週間いかがお過ごしでしょうか。つぶやきませんでしたか。自分の思い通りいかないことはたくさんあります。あなたは、自分の願いや思いと、神がおっしゃることが異なったとき、あなたはどうしますか?神に従うか、それとも自分の思ったようにするか。神のみことばに反して自分の思った通りすると、せっかくの神の祝福を受け取れません。神の言われることと自分の思いが異なるとき、神のみことばに従うことが、神を主とすることなのです。

 

まとめ)「試練の意味」 

 神の救いは、罪と死からの救い、悪魔と世からの救いと共に、人生のどのような場面でも、神を主とすることによって、神の祝福をしっかり受け取ることなのです。皆さんにも、願わないこと、つらいことが起きることもあるでしょう。そんな時に神などいないと思ってはいけません。神は主であることを知らせようとしておられるのです。そんな時こそ、神の声を聞いて従い、神の祝福と神の栄光を見ましょう。